神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

常名天神山古墳

2022-04-30 23:32:43 | 古墳
常名天神山古墳(ひたなてんじんやまこふん)。
場所:茨城県土浦市常名2445-1外。国道354号線の通称「真鍋四ツ角」交差点から西~北西へ約1.8km、電柱に「金山寺→」という案内看板が出ているところで右折(北へ)、次の交差点(約40m)を左折(西へ)、約100mで「常名神社」入口。駐車場は、その先をぐるりと回って(北側へ。神社の裏手)、古墳の横を通って神社境内に入れる道があるが、道幅が狭いので注意。
「常名天神山古墳」は全長約70mの前方後円墳で、後円部径約45m・高さ約7m、前方部先端幅約25m・高さ約4m。一部は削られていて、当初は全長約90mあったと推定されており、土浦市内では2番目の大きさという。桜川左岸(北岸)の標高約23mの台地上にあり、前方部は西向き。発掘調査等は行われていないが、低平な前方部の形態から古墳時代前期(5世紀初頭)頃の築造と推定されている。なお、埴輪、葺石等は見つかっていない。古墳は土浦市指定文化財(史跡)に指定されており、後円部墳頂に「常名神社」、前方部には小祠と石造の宝篋印塔がある。この宝篋印塔は、花崗岩製で、基礎の下段部分以下が失われているが、現高は約135cm。安土桃山時代の作とみられ、土浦市指定文化財(工芸品)となっている。
なお、「常名神社」の創建年代は不明だが、大正2年、当地にあった「天神社」に「八幡神社」を合祀し、大正14年に村社に列格したという。現在の祭神は、菅原道真公と誉田別命。
蛇足:常名(ひたな)というのは難読地名だろう。「土浦市史民俗編」によれば、次のような伝承があるらしい。「昔、桜川の奥まで海が入り込んでいた。日本武尊が当地を通りかかったとき、水が満々とたたえられていた。ところが、帰りにまた当地を通ると、干潟になっていた。この言葉が訛って「ひたな」となり、現在の文字が当てられるようになった...」。「ひがた」が「ひたな」に変化したこと、「ひたな」に「常名」という漢字が当てられたことについては、何となくしっくりしないのだけれど、日本武尊が当地を通った、という伝説があることは注目に値すると思う。


写真1:「常名神社」入口。鳥居と社号標(「村社 常名神社」)


写真2:狭くて急な長い石段を上って行く。


写真3:石段を上りきると、直ぐに拝殿。


写真4:拝殿・本殿


写真5:社殿は「常名天神山古墳」後円部墳頂にあり、そこから下に下りたところに説明板と市指定史跡の石柱がある。


写真6:後円部から前方部を見る(東側から西側を見る)。括れがはっきりせず、真っ直ぐ下がっているように見える。


写真7:前方部に小祠が並んでいる。


写真8:前方部。西側から見る。


写真9:前方部。南西側から見る。


写真10:前方部にある石造宝篋印塔


写真11:前方部から後円部を見る(西側から東側を見る。)。
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蛇喰古墳(茨城県牛久市)

2021-12-04 23:33:57 | 古墳
蛇喰古墳(じゃばみこふん)。
場所:茨城県牛久市神谷町2-21-3。茨城県道272号線(牛久停車場線)「下柏田」交差点から、通称「ふれあい道路」を南へ約600m進み、通称「女化街道(おなばけかいどう)」に入って南東へ約350m。駐車場有り。
「蛇喰古墳」は、牛久沼と小野川にはさまれた現・牛久市街地に所在する前方後円墳で、全長約45mという大きさは牛久市内で最大規模という。牛久市内では約100基の古墳が確認されているが、殆どが円墳で、前方後円墳は珍しい。未発掘のため詳細は不明だが、埴輪等は確認されておらず、古墳時代後期(6世紀頃?)の築造で、当地を支配した豪族の首長の墳墓とみられている。なお、当古墳の南、約200mのところにあった「貝塚台古墳」(現在は湮滅)では、箱式石棺の内部から人骨2体、直刀5振、銀環1対、鉄鏃が見つかっている。
現在、墳頂に「神谷稲荷神社」が鎮座しているが、元は明治~大正時代の実業家・神谷伝兵衛が所有するブドウ農園(「神谷葡萄園」)の中にあって、明治35年頃に神谷の出身地である現・愛知県豊川市の「豊川稲荷」(曹洞宗「円福山 妙厳寺」)から勧請して創建したものという。
蛇足:「蛇喰古墳」という名称の由来に興味が湧くが、詳細不明。以前、牛久市立中央図書館が資料を調べたものの、わからなかったようである。一般論として、民俗学的には、地名としての「蛇喰」は、「蛇抜(じゃぬけ)」、「蛇崩(じゃくずれ)」と同様に山崩れが発生した場所を意味する。大雨の後、山の地中に隠れていた大蛇が抜け出ると、そこが山崩れになるという伝説が各地にあったらしい。しかし、当地は平地であり、山崩れとは無関係だろう。あるいは、かつては古墳の石室が露出して、そこから大蛇が抜け出たと思われたのかもしれない(根拠なし。)。


写真1:「蛇喰古墳」。「女化街道」側(西側)から。


写真2:前方部(北西向き)に「神谷稲荷神社」の鳥居、参道がある。


写真3:北側から見る(手前が前方部)。


写真4:前方部から後円部を見る。


写真5:後円部墳頂に鎮座する「神谷稲荷神社」社殿。賽銭箱は当然だろうが、社殿の扉も太い鎖と南京錠で厳重に封鎖されている。


写真6:後円部。南東側から見る。
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大日山古墳(茨城県取手市)

2021-10-30 23:44:12 | 古墳
大日山古墳(だいにちやまこふん)。大日山古墳群第1号墳。古墳上に「岡神社」が鎮座している。
場所:茨城県取手市岡1179。「親王山 延命寺」(前々項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで左折(北東~南東へ。水路に架かる橋を渡って水路沿いに進む。)、約140m進んだところで右折(南西へ)、道なりに約180m進んで右折(水路に架かる橋を渡る。)、水路の右を進む。道路が二岐に分かれるところで、右へ進んで約40mで「岡神社」の鳥居前(「池田屋」という工場?の裏)。駐車場はなく、道路も狭いので、「仏島山古墳」(前項)手前付近などに止めてきた方が良い。なお、「仏島山古墳」手前(西、約60m)から台地に上る狭い道があり、徒歩数分で古墳・神社社殿まで行ける。
「大日山古墳」は岡台地と呼ばれる舌状台地の先端に築かれた直径約18m、高さ約2.8mの円墳で、築造時期は6世紀頃ということで昭和14年に茨城県指定文化財(史跡)に指定されている。しかし、これを古墳とすることについて疑問の声も上がっていた。例えば、①円墳とされるが、外観は方形状で、傾斜も急である、②当地では、江戸時代初期から大日信仰が盛んになり、頂上に「大日堂」があった(「大日堂」にあった大日如来像は、現在は岡公民館に安置されている。)ことから、「大日塚」として築かれたものではないか。形状も他地区の「大日塚」に似ている、③台地上に中世城郭があったようで、その櫓台として造られたものではないか、④付近で玉類や鉄鏃などが発見されたといわれるが、「仏島山古墳」からの出土物と混同されたものではないか、等である。こうしたことから、昭和63年に、古墳の周溝部とされた部分(裾の平らな部分)のトレンチ調査が行われたが、周溝は検出されず、これといった出土物もなかった。実測では、方形で、底形13m×17m、上形5m×5m。自然地形ではなく、おそらく方形に築造されたものとされる。結局、主体部の発掘調査をしなければ結論は出せないとしているが、元の古墳を中世に城郭の櫓台に転用し、近世に大日塚に改造した可能性を指摘している。
このように、明確に古墳であるとも断定できないのだが、伝承では、ここに平将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)の館があり、朝日を拝むのに最適な場所として「朝日御殿」と呼ばれていた、という。桔梗姫は、将門が討たれたのを聞いて、目の前の沼に身を投げて亡くなったという伝説もある。この沼はその後、水田となったが、「桔梗田」と呼ばれて村人が共同で耕作する田となったとされている。「大日山古墳」が古墳時代のいわゆる「古墳」であれば時代が合わないが、将門、あるいは桔梗姫の墳墓という伝承もあったようだ。
古墳の右脇(北側)に広場があり、これが「朝日御殿」跡との伝承の場所だろう。また、中世の城郭「岡城」跡ともいわれるが、その歴史、城主等は一切不明である。現在、古墳上に「岡神社」が鎮座しているが、創建時期が江戸時代というほかは不明。一説に将門の重臣の子孫が「熊野権現」を祀っていたというが、「岡神社」との関係は判然としない。元は「大龍神社」と称し、明治15年に村社となり、明治41年に村内の八幡・鹿島・稲荷・姫宮・天神・水神の各神社を合祀して、明治42年に「岡神社」と改称したという。現在の主祭神は、水波女命(ミズハノメ)。おそらく、近世になって周囲が水田開発されるにあたり、しばしば氾濫する小貝川の水害除けを祈願したものだろう。


写真1:「岡神社」鳥居。急な石段を上る。


写真2:最初の石段を上ったところに、更に一段高い場所があり、これが「大日山古墳」。手水鉢、稲荷社の石祠などがある。


写真3:古墳の周りに石祠、石仏、石塔が並ぶ。


写真4:古墳の墳頂に「岡神社」社殿がある。


写真5:北東側の石段(社殿は南東向き)


写真6:祭礼記念碑


写真7:古墳(社殿)北側の平地。ここが「朝日御殿」とされる場所だろう。


写真8:南西の麓の水田。


写真9:鳥居前から西へ約200m進むと、南側の水路手前に「桔梗田」の説明板がある。
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仏島山古墳

2021-10-23 23:03:42 | 古墳
仏島山古墳(ぶっとうさんこふん)。大日山古墳群第3号墳。
場所:茨城県取手市岡926。「親王山 延命寺」(前項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで、右折(南西へ。水路と反対方向)、約40m進み、カーブミラーのあるところで左折(南東へ)、道なりに160m。駐車場なし。なお、古墳付近で行き止まりになるので、注意。
「仏島山古墳」は岡台地の先端(北東)の麓にある円墳で、周辺に5基あった(うち3基は湮滅)「大日山古墳群」の第3号墳の通称である。元は約30mの円墳で、相当な高さがあり、周濠が巡らされていたとされる。中世には、墳丘上に仏像や石塔等が建立されて「仏島山」との名がついた。かつて一帯は草木が生い茂り、「岡不知(おかしらず)」と呼ばれ、地元の人々も迷うほどの場所だったという。平将門の墓、あるいは将門軍の武器を埋めたところとの伝承があり、地面を踏むと(反響して)音がする、あるいは、草木が異様に茂るのは武器の金気(かなけ)のせいである、ともいわれていたらしい。なお、「親王山 地蔵院 延命寺」(前項)の創建に係る、将門の墓とされる「塚」がこれだろうとされる。
しかし、明治28年に学校敷地造成のため、また昭和8年に小貝川の「岡堰」改良工事のために土取りがされ、このとき、それぞれ骨片・刀剣・曲玉等、円形埴輪等が出土している。後者の工事の時には、この古墳が完全に破壊される寸前で地元民が「将門の墓である」として反対運動を行い、原形を殆ど留めないながらも残ることになった(その経緯を記した石碑が古墳中央に建てられている。)。なお、築造時期は6世紀頃と推定されており、もちろん、将門の時代のものではないということになる。


写真1:「仏島山古墳」。東側(写真手前)が参道のようになっているが、入口側? は水路で隔てられていて、こちらから入れない。


写真2:東側正面は木の葉が茂っている。


写真3:古墳中央に石祠(「将門神社」)と石碑(「仏島山之記碑」)


写真4:「舟形地蔵と野仏」。古墳の北西、約25m(直線距離)にある。船形地蔵は舟形後背249cm・立像170cm。野仏は光背78cm、坐像55cmで、「延命寺法印順海」の名があり、ここも「延命寺」の支配地であったとみられている。


写真5:「岡台地と平将門」説明柱。古墳の北西、約110m(直線距離)にある。なお、後ろに見える墓地は現・取手市山王の「仏島山 華蔵院 金仙寺」の奥之院で、寺院は元は取手市岡にあったが、火災に遭い、寛永5年(1628年)に移転したとのこと。 「取手市史」では、「延命寺」創建のとき、覚鑁上人が泊った草庵が「金仙寺」の前身ではないかとしている。
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将門土偶之墓

2021-09-11 23:28:38 | 古墳
将門土偶之墓(まさかどどぐうのはか)。
場所:茨城県取手市市之代。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」交差点から北東に約1.7km、小貝川に架かる「稲豊橋」西側の感応式信号機のある交差点を左折(北西へ)、約50m。駐車場なし。
「将門土偶之墓」は、明治7年の道路改修の折、甲冑を着た武者の土偶が出土したのを、平将門軍の兵士とみて、再び埋葬したものとされる。ただし、どこから出土したかは不明。因みに、当地の南に「島広山」という地名(将門の本拠地とされる「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事)と同じ。)があったといわれている。現在、現・茨城県守谷市みずき野となっているところは、元は「郷州原」(字郷州)と呼ばれる荒地、雑木林だったらしい(同町内に「郷州小学校」がある。)。昭和54年から広い住宅団地が開発され、古い面影は殆どないが、かつて「郷州海道」という道があり、ここから、現・取手市の高井~山王とを結んでいたとされる。現・取手市下高井に「(下総)高井城址」があり、伝承では、将門の敗死により、常陸国信太郡(現・稲敷市ほか)に逃げた将門の後裔が長治年間(1104~1106年)に戻ってきて築いた城で、ここから相馬氏を名乗ったともいう。その真偽は不明だが、戦国時代の相馬氏の支城であったことは間違いなく、「郷州海道」というのは、市之代~高井~山王と、小貝川沿いの河岸段丘を進む軍事道路だったのかもしれない。また、みずき野の南西に「乙子(おとご)」という地名があるが、これは「守谷城」の落とし口(脱出路)、即ち「落口(おとご)」に由来するともいう(「守谷城址」(2021年7月24日記事参照))。つまり、この地区でも、相馬氏により将門伝説が流布された可能性がある。
さて、土偶であるが、市之代の小貝川沿いに「市之代古墳群」(前方後円墳2基、円墳19基の計21基)があり、土偶はこれらの古墳からの出土品だろうと思われる。築造時期は5世紀後半~6世紀中葉とされている(「市之代古墳群第3号墳調査報告書」による。)ので、もちろん将門の時代のものではないことは明らかだが、武者といえば将門に結び付けられることの素地があったのだろう。
また、近くに「姫宮神社」がある。江戸時代の創建で、現在の祭神は櫛稲田姫命ということしかわからないが、地元では、将門の愛妾、または娘を祀っているとの伝承があるとされる。この姫様は、餅草で目を突き、片目になったという。民俗学的には、神様が植物の根に躓いて目を傷め、その植物の実を食べないという伝承は各地にあるが、この場合はどういう意味なのだろうか。


写真1:「将門土偶之墓」。コンクリート製らしく、昭和12年銘がある。現在も、水などを手向ける人があるようだ。もちろん、祟りなどという話は聞かない。なお、碑は右に傾いているし、覆屋もゆがんでいる。


写真2:「市之代古墳 第三」石碑(「稲豊橋」西詰。駐車場なし。交通量が結構多いので注意。)。第3号墳は長さ約20mの前方後円墳(だったが、道路工事により後円部は消滅)。土師器、人物形埴輪などが出土したという。


写真3:写真2の奥は竹林になっていて、どこがどう古墳なのか、よくわからない。


写真4:「姫宮神社」鳥居(場所:茨城県取手市市之代500。「将門土偶之墓」から北西へ約300mのところで右折(北東へ)、約100m。駐車場有り。)。元は「西蔵寺」(廃寺)の敷地だったらしく、地区の集会所や共同墓地、ポスト、火の見櫓、ごみ集積所などが集められている場所にある。


写真5:同上、社殿


写真6:同上、社殿の「比め美屋」という額。もう1つ「稲田姫尊」という額も掛かっている。比較的最近のものとみられるが、彫刻がリアル。


写真7:同上、鳥居横の仏堂。中央は如来像だが、手指が欠けている。隣接して市之代地区の共同墓地があることから、阿弥陀如来かもしれない。他に石造の大師像らしきものもある。
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