神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

蛇喰古墳(茨城県牛久市)

2021-12-04 23:33:57 | 古墳
蛇喰古墳(じゃばみこふん)。
場所:茨城県牛久市神谷町2-21-3。茨城県道272号線(牛久停車場線)「下柏田」交差点から、通称「ふれあい道路」を南へ約600m進み、通称「女化街道(おなばけかいどう)」に入って南東へ約350m。駐車場有り。
「蛇喰古墳」は、牛久沼と小野川にはさまれた現・牛久市街地に所在する前方後円墳で、全長約45mという大きさは牛久市内で最大規模という。牛久市内では約100基の古墳が確認されているが、殆どが円墳で、前方後円墳は珍しい。未発掘のため詳細は不明だが、埴輪等は確認されておらず、古墳時代後期(6世紀頃?)の築造で、当地を支配した豪族の首長の墳墓とみられている。なお、当古墳の南、約200mのところにあった「貝塚台古墳」(現在は湮滅)では、箱式石棺の内部から人骨2体、直刀5振、銀環1対、鉄鏃が見つかっている。
現在、墳頂に「神谷稲荷神社」が鎮座しているが、元は明治~大正時代の実業家・神谷伝兵衛が所有するブドウ農園(「神谷葡萄園」)の中にあって、明治35年頃に神谷の出身地である現・愛知県豊川市の「豊川稲荷」(曹洞宗「円福山 妙厳寺」)から勧請して創建したものという。
蛇足:「蛇喰古墳」という名称の由来に興味が湧くが、詳細不明。以前、牛久市立中央図書館が資料を調べたものの、わからなかったようである。一般論として、民俗学的には、地名としての「蛇喰」は、「蛇抜(じゃぬけ)」、「蛇崩(じゃくずれ)」と同様に山崩れが発生した場所を意味する。大雨の後、山の地中に隠れていた大蛇が抜け出ると、そこが山崩れになるという伝説が各地にあったらしい。しかし、当地は平地であり、山崩れとは無関係だろう。あるいは、かつては古墳の石室が露出して、そこから大蛇が抜け出たと思われたのかもしれない(根拠なし。)。


写真1:「蛇喰古墳」。「女化街道」側(西側)から。


写真2:前方部(北西向き)に「神谷稲荷神社」の鳥居、参道がある。


写真3:北側から見る(手前が前方部)。


写真4:前方部から後円部を見る。


写真5:後円部墳頂に鎮座する「神谷稲荷神社」社殿。賽銭箱は当然だろうが、社殿の扉も太い鎖と南京錠で厳重に封鎖されている。


写真6:後円部。南東側から見る。
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大日山古墳(茨城県取手市)

2021-10-30 23:44:12 | 古墳
大日山古墳(だいにちやまこふん)。大日山古墳群第1号墳。古墳上に「岡神社」が鎮座している。
場所:茨城県取手市岡1179。「親王山 延命寺」(前々項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで左折(北東~南東へ。水路に架かる橋を渡って水路沿いに進む。)、約140m進んだところで右折(南西へ)、道なりに約180m進んで右折(水路に架かる橋を渡る。)、水路の右を進む。道路が二岐に分かれるところで、右へ進んで約40mで「岡神社」の鳥居前(「池田屋」という工場?の裏)。駐車場はなく、道路も狭いので、「仏島山古墳」(前項)手前付近などに止めてきた方が良い。なお、「仏島山古墳」手前(西、約60m)から台地に上る狭い道があり、徒歩数分で古墳・神社社殿まで行ける。
「大日山古墳」は岡台地と呼ばれる舌状台地の先端に築かれた直径約18m、高さ約2.8mの円墳で、築造時期は6世紀頃ということで昭和14年に茨城県指定文化財(史跡)に指定されている。しかし、これを古墳とすることについて疑問の声も上がっていた。例えば、①円墳とされるが、外観は方形状で、傾斜も急である、②当地では、江戸時代初期から大日信仰が盛んになり、頂上に「大日堂」があった(「大日堂」にあった大日如来像は、現在は岡公民館に安置されている。)ことから、「大日塚」として築かれたものではないか。形状も他地区の「大日塚」に似ている、③台地上に中世城郭があったようで、その櫓台として造られたものではないか、④付近で玉類や鉄鏃などが発見されたといわれるが、「仏島山古墳」からの出土物と混同されたものではないか、等である。こうしたことから、昭和63年に、古墳の周溝部とされた部分(裾の平らな部分)のトレンチ調査が行われたが、周溝は検出されず、これといった出土物もなかった。実測では、方形で、底形13m×17m、上形5m×5m。自然地形ではなく、おそらく方形に築造されたものとされる。結局、主体部の発掘調査をしなければ結論は出せないとしているが、元の古墳を中世に城郭の櫓台に転用し、近世に大日塚に改造した可能性を指摘している。
このように、明確に古墳であるとも断定できないのだが、伝承では、ここに平将門の愛妾・桔梗姫(桔梗御前)の館があり、朝日を拝むのに最適な場所として「朝日御殿」と呼ばれていた、という。桔梗姫は、将門が討たれたのを聞いて、目の前の沼に身を投げて亡くなったという伝説もある。この沼はその後、水田となったが、「桔梗田」と呼ばれて村人が共同で耕作する田となったとされている。「大日山古墳」が古墳時代のいわゆる「古墳」であれば時代が合わないが、将門、あるいは桔梗姫の墳墓という伝承もあったようだ。
古墳の右脇(北側)に広場があり、これが「朝日御殿」跡との伝承の場所だろう。また、中世の城郭「岡城」跡ともいわれるが、その歴史、城主等は一切不明である。現在、古墳上に「岡神社」が鎮座しているが、創建時期が江戸時代というほかは不明。一説に将門の重臣の子孫が「熊野権現」を祀っていたというが、「岡神社」との関係は判然としない。元は「大龍神社」と称し、明治15年に村社となり、明治41年に村内の八幡・鹿島・稲荷・姫宮・天神・水神の各神社を合祀して、明治42年に「岡神社」と改称したという。現在の主祭神は、水波女命(ミズハノメ)。おそらく、近世になって周囲が水田開発されるにあたり、しばしば氾濫する小貝川の水害除けを祈願したものだろう。


写真1:「岡神社」鳥居。急な石段を上る。


写真2:最初の石段を上ったところに、更に一段高い場所があり、これが「大日山古墳」。手水鉢、稲荷社の石祠などがある。


写真3:古墳の周りに石祠、石仏、石塔が並ぶ。


写真4:古墳の墳頂に「岡神社」社殿がある。


写真5:北東側の石段(社殿は南東向き)


写真6:祭礼記念碑


写真7:古墳(社殿)北側の平地。ここが「朝日御殿」とされる場所だろう。


写真8:南西の麓の水田。


写真9:鳥居前から西へ約200m進むと、南側の水路手前に「桔梗田」の説明板がある。
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仏島山古墳

2021-10-23 23:03:42 | 古墳
仏島山古墳(ぶっとうさんこふん)。大日山古墳群第3号墳。
場所:茨城県取手市岡926。「親王山 延命寺」(前項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで、右折(南西へ。水路と反対方向)、約40m進み、カーブミラーのあるところで左折(南東へ)、道なりに160m。駐車場なし。なお、古墳付近で行き止まりになるので、注意。
「仏島山古墳」は岡台地の先端(北東)の麓にある円墳で、周辺に5基あった(うち3基は湮滅)「大日山古墳群」の第3号墳の通称である。元は約30mの円墳で、相当な高さがあり、周濠が巡らされていたとされる。中世には、墳丘上に仏像や石塔等が建立されて「仏島山」との名がついた。かつて一帯は草木が生い茂り、「岡不知(おかしらず)」と呼ばれ、地元の人々も迷うほどの場所だったという。平将門の墓、あるいは将門軍の武器を埋めたところとの伝承があり、地面を踏むと(反響して)音がする、あるいは、草木が異様に茂るのは武器の金気(かなけ)のせいである、ともいわれていたらしい。なお、「親王山 地蔵院 延命寺」(前項)の創建に係る、将門の墓とされる「塚」がこれだろうとされる。
しかし、明治28年に学校敷地造成のため、また昭和8年に小貝川の「岡堰」改良工事のために土取りがされ、このとき、それぞれ骨片・刀剣・曲玉等、円形埴輪等が出土している。後者の工事の時には、この古墳が完全に破壊される寸前で地元民が「将門の墓である」として反対運動を行い、原形を殆ど留めないながらも残ることになった(その経緯を記した石碑が古墳中央に建てられている。)。なお、築造時期は6世紀頃と推定されており、もちろん、将門の時代のものではないということになる。


写真1:「仏島山古墳」。東側(写真手前)が参道のようになっているが、入口側? は水路で隔てられていて、こちらから入れない。


写真2:東側正面は木の葉が茂っている。


写真3:古墳中央に石祠(「将門神社」)と石碑(「仏島山之記碑」)


写真4:「舟形地蔵と野仏」。古墳の北西、約25m(直線距離)にある。船形地蔵は舟形後背249cm・立像170cm。野仏は光背78cm、坐像55cmで、「延命寺法印順海」の名があり、ここも「延命寺」の支配地であったとみられている。


写真5:「岡台地と平将門」説明柱。古墳の北西、約110m(直線距離)にある。なお、後ろに見える墓地は現・取手市山王の「仏島山 華蔵院 金仙寺」の奥之院で、寺院は元は取手市岡にあったが、火災に遭い、寛永5年(1628年)に移転したとのこと。 「取手市史」では、「延命寺」創建のとき、覚鑁上人が泊った草庵が「金仙寺」の前身ではないかとしている。
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将門土偶之墓

2021-09-11 23:28:38 | 古墳
将門土偶之墓(まさかどどぐうのはか)。
場所:茨城県取手市市之代。茨城県道328号線(谷井田稲戸井停車場線)「みずき野十字路」交差点から北東に約1.7km、小貝川に架かる「稲豊橋」西側の感応式信号機のある交差点を左折(北西へ)、約50m。駐車場なし。
「将門土偶之墓」は、明治7年の道路改修の折、甲冑を着た武者の土偶が出土したのを、平将門軍の兵士とみて、再び埋葬したものとされる。ただし、どこから出土したかは不明。因みに、当地の南に「島広山」という地名(将門の本拠地とされる「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事)と同じ。)があったといわれている。現在、現・茨城県守谷市みずき野となっているところは、元は「郷州原」(字郷州)と呼ばれる荒地、雑木林だったらしい(同町内に「郷州小学校」がある。)。昭和54年から広い住宅団地が開発され、古い面影は殆どないが、かつて「郷州海道」という道があり、ここから、現・取手市の高井~山王とを結んでいたとされる。現・取手市下高井に「(下総)高井城址」があり、伝承では、将門の敗死により、常陸国信太郡(現・稲敷市ほか)に逃げた将門の後裔が長治年間(1104~1106年)に戻ってきて築いた城で、ここから相馬氏を名乗ったともいう。その真偽は不明だが、戦国時代の相馬氏の支城であったことは間違いなく、「郷州海道」というのは、市之代~高井~山王と、小貝川沿いの河岸段丘を進む軍事道路だったのかもしれない。また、みずき野の南西に「乙子(おとご)」という地名があるが、これは「守谷城」の落とし口(脱出路)、即ち「落口(おとご)」に由来するともいう(「守谷城址」(2021年7月24日記事参照))。つまり、この地区でも、相馬氏により将門伝説が流布された可能性がある。
さて、土偶であるが、市之代の小貝川沿いに「市之代古墳群」(前方後円墳2基、円墳19基の計21基)があり、土偶はこれらの古墳からの出土品だろうと思われる。築造時期は5世紀後半~6世紀中葉とされている(「市之代古墳群第3号墳調査報告書」による。)ので、もちろん将門の時代のものではないことは明らかだが、武者といえば将門に結び付けられることの素地があったのだろう。
また、近くに「姫宮神社」がある。江戸時代の創建で、現在の祭神は櫛稲田姫命ということしかわからないが、地元では、将門の愛妾、または娘を祀っているとの伝承があるとされる。この姫様は、餅草で目を突き、片目になったという。民俗学的には、神様が植物の根に躓いて目を傷め、その植物の実を食べないという伝承は各地にあるが、この場合はどういう意味なのだろうか。


写真1:「将門土偶之墓」。コンクリート製らしく、昭和12年銘がある。現在も、水などを手向ける人があるようだ。もちろん、祟りなどという話は聞かない。なお、碑は右に傾いているし、覆屋もゆがんでいる。


写真2:「市之代古墳 第三」石碑(「稲豊橋」西詰。駐車場なし。交通量が結構多いので注意。)。第3号墳は長さ約20mの前方後円墳(だったが、道路工事により後円部は消滅)。土師器、人物形埴輪などが出土したという。


写真3:写真2の奥は竹林になっていて、どこがどう古墳なのか、よくわからない。


写真4:「姫宮神社」鳥居(場所:茨城県取手市市之代500。「将門土偶之墓」から北西へ約300mのところで右折(北東へ)、約100m。駐車場有り。)。元は「西蔵寺」(廃寺)の敷地だったらしく、地区の集会所や共同墓地、ポスト、火の見櫓、ごみ集積所などが集められている場所にある。


写真5:同上、社殿


写真6:同上、社殿の「比め美屋」という額。もう1つ「稲田姫尊」という額も掛かっている。比較的最近のものとみられるが、彫刻がリアル。


写真7:同上、鳥居横の仏堂。中央は如来像だが、手指が欠けている。隣接して市之代地区の共同墓地があることから、阿弥陀如来かもしれない。他に石造の大師像らしきものもある。
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穴薬師古墳(茨城県五霞町)

2021-06-12 23:20:14 | 古墳
穴薬師古墳(あなやくしこふん)。
場所:茨城県猿島郡五霞町川妻小字岩穴249外。国道4号線(新4号国道「春日部古河バイパス))「五霞交差点」から茨城県道268号線(西関宿栗橋線)を北西へ約2.9km(途中、約1.3kmのところで県道268号線は右折(北へ)となるので注意。)、「穴薬師古墳入口」の案内看板があるところで左折(南へ)、約130m。駐車場なし。ただし、すぐ手前の「浄雲寺」に駐車スペース有り。
「穴薬師古墳」は茨城県五霞町にある直径約30m、高さ約4mの円墳。五霞町は四方を川に囲まれ、茨城県で唯一、全域が利根川の右岸(南岸)にあるが、古代には下総国猿島郡に属した。それは、古代には利根川本流はかなり南を流れていたからで、現在では、当古墳は現・利根川堤防の直ぐ南側のような感じだが、猿島台地の一部なので河川の氾濫からは免れていたようだ。さて、当古墳には横穴式石室があり、幅約2m、長さ約7mの規模で、奥部は高さ約2mのヒョウタン型。中央部両側に長さ1.5m、0.3m角の門石で前室と奥室とに区切られている。また、下段に人頭大(30cm程)の自然石を並べて基礎とし、その上に整形した軽石を積み上げて側壁としている。奥壁には、板状の石を使って五輪の塔を思わせる模様が描かれているとのこと。古墳時代終末期(7世紀頃?)の造営とされるが、奈良時代の貴族が造ったともいわれているらしい。このような古墳は関東地方には類例がなく、学術上貴重なものとされ、長らく荒廃したまま放置されていたが、昭和47年から復元整備が行われ、茨城県指定文化財に指定された。なお、石室の奥に薬師如来像が安置されていたとのことで(古墳造営時からのものかは不明)、「穴薬師」との名がついた。当古墳の北側に浄土宗「浄雲寺」があり、本堂には阿弥陀如来・薬師如来・如意輪観世音菩薩の三尊が祀られていて、「葛飾坂東観音霊場」第6番札所ともなっていることから、観音霊場としては「岩屋観音」とも通称されているようである。当古墳と無関係ということはあり得ないだろうが、「浄雲寺」がどのような経緯で、いつ創建されたかは不明。
因みに、当古墳にも、開口した石室の古墳によくある「椀貸伝説」の伝説があり、岩屋に向かって村人が何人分かの膳椀を貸してくれるように頼むと、翌朝には希望した数の膳と椀が用意されているというもの。ここにも、岩屋が隠れ里の入口であるとの発想があったのかもしれない。


五霞町のHPから(穴薬師古墳)


写真1:「穴薬師古墳」に向かう道路の入口にある不動明王石像


写真2:浄土宗「浄雲寺」本堂(薬師堂)。


写真3:同上、境内の宝篋印塔と地蔵菩薩石像


写真4:「穴薬師古墳」入口。「浄運寺」から南へ約90m。


写真5:同上、古墳は畑の中にある。


写真6:同上、石室が開口しているが、施錠された鉄格子の扉が設置されている。


写真7:同上、石室。扉から覗くと、きれいな石組がよくわかる。


写真8:同上、墳頂にある「愛宕神社 岩屋神(社)」の石碑。今、祠はない。


写真9:同上、全景。南東側から見る。


写真10:同上、全景。北側から見る。
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