神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

稲塚古墳(茨城県龍ケ崎市)(常陸国式外社・その10の1?)

2020-10-24 23:57:21 | 古墳
稲塚古墳(いなつかこふん)。
場所:茨城県龍ケ崎市八代町稲塚3903。茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)と同68号線(美浦栄線)の「下八代」交差点から東に約80m、県道沿いの北側。駐車場なし。
「常陸国風土記」信太郡の条に「その里の西に飯名神社がある。これは筑波山におられる飯名神の分社である。」(現代語訳)という記載があり、これによって、現・茨城県つくば市の「飯名神社」が式外社とされるようになっている(前項)。「飯名神」についての記述は「常陸国風土記」筑波郡の条には無いが、もともと無かったのか、その部分が省略されてしまったのか不明である。一方、信太郡の方では原文に「飯名社」とあって、明確に神社が存在して信仰の対象になっていたことがわかる。ただし、その所在地については、「その里」というのがよくわからないので不明。その前の部分で地名らしいのは「葦原」くらいだが、これは「土俗の諺に『葦原の鹿肉は美味しい』とあり、食べてみると山の鹿肉とは違う」という記述であり、「葦原」は地名ではなく、一般名詞だろう。
ということなのだが、信太郡の方の式外社「飯名神社」については、古くから現・茨城県龍ケ崎市(旧・八原村)に存在する「稲塚古墳」上の「稲敷神社」と称する小祠に比定されてきた。「稲塚古墳」は現存するものの、民有地(個人住宅)内にあって非公開・参観謝絶ということなので、墳上の祠の現況も不明となっている。情報が少ないのだが、ネット等で調べると、古墳としては円墳で、径約14m、高さ4m。「稲塚古墳」のことかどうか確定できないが、「茨城縣に於ける古墳の分布」(川角寅吉著)という資料に「八原村大字八代字稲塚臺」の古墳の情報として「石棺中に白骨二人分あり」というのがある。「稲敷神社」については、民有地上の神社にも関わらず、戦前の神社明細帳に「無格社」とあって、「創建祭神不詳」、「大正10年に倒壊、後再建」という記載があるとのこと。また、内山信名(1787~1836年)著「新編常陸国誌」に「土地の人は、稲塚を筑波山と呼び、その頂上に石祠がある。」(現代語訳)などという記述がある。
以上の通り、「稲塚古墳」上に今も神社があるのか、あるとして、それは式外社「飯名神社」なのか、という問題は解決できないのだが、「飯名神社」が当地の地名の元になったというのが通説化している。まず、「八代町(やしろまち)」は「飯名神社」の「社(やしろ)」であり、近代以降の「稲敷郡」の「稲敷」は、「飯名神社」の敷地ということに由来するという。


写真1:「稲塚古墳」


写真2:近寄って見る。写真に写っていないが、塀の中にある。


写真3:記念碑のようなものが見える。
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高寺第2号古墳(茨城県笠間市)

2020-06-27 11:54:44 | 古墳
高寺第2号古墳(たかでらだいにごうこふん)。
場所:茨城県笠間市小原2912(「廣慶寺」の住所)。JR常磐線「友部」駅北口から茨城県道193号線(杉崎友部線)を北東に約2.1km。駐車場有り。
「高寺第2号古墳」は、曹洞宗「住吉山 小原院 廣慶寺」内の墓地や山林中に散存する8基からなる「高寺古墳群」の1つである(同古墳のみ笠間市指定文化財)。墓地整備中に石室が発見され、昭和50年に発掘調査が行われ、幅約4.5mの周溝に囲まれた直径約18m、高さ約5.6mの円墳であることが判明した。主体部は全長約5mの花崗岩からなる横穴式石室で、南北に築かれている。玄室は片袖型の横穴式石室で、長さ約3.1m、奥壁の幅約1.6m、高さ約1.5mで、床には花崗岩、粘板岩の割石が敷かれていた。玄室内から骨粉が検出されたが、被葬者の性別、年齢などは不明。副葬品として直刀7振、管玉、琥珀製棗玉、銀環(耳飾)、刀子などが出土したほか、前庭部から須恵器、鉄鍬、土師器などが出土した。墳丘部からは武人埴輪、円形埴輪が見つかっている(なお、出土品は「笠間市立歴史民俗資料館で保存・展示されている。)。こうした出土品の内容・形状等から、築造時期は6~7世紀頃で、被葬者は当地の首長クラスと推定されているとのこと。
「常陸国風土記」那賀郡の条に「茨城の里の北に高い丘があって、晡時臥山(くれふしのやま)という。」(口語訳)とあり、この「茨城の里」が現・茨城県笠間市小原付近というのが通説(「晡時臥山」については、「朝房山」(2019年4月13日記事参照))。古代には、合併前の旧・笠間市は常陸国新治郡、旧・友部町は同茨城郡及び那珂郡に属した。そして、「小原(おばら)」という地名は、「茨城(うばらき)」が訛ったものと言われている。現・茨城県石岡市は、常陸国府が置かれた場所として、「「茨城」の地名発祥の地」ともしているが(「茨城廃寺跡」(2018年2月3日記事参照))、もともと当地が「茨城国造」時代の中心地で、大化改新の後に「常陸国府」が現・石岡市に置かれて、「常陸国」の中心が移ったという説も強い。
因みに、「廣慶寺」の南側の広い範囲内に中世の城館「小原城」があった。「廣慶寺」の南向い側から、「小原神社」や「御城稲荷神社」境内を含む。「御城稲荷神社」境内が本丸部分で、堀と土塁に囲まれている(土塁は一部残っているが、堀は埋め立てられてしまったようだ。)。手綱郷(現・茨城県高萩市)の地頭・里見家基が、鎌倉公方・足利持氏より那珂西郡の地を与えられ、「小原城」を築き、弟の満俊に小原地方を治めさせた。文亀2年(1502年)、里見義俊が養堂禅師の道風を慕って「廣慶寺」を建立したという。古墳等は多いものの、古代の施設跡などは発見されていないが、旧・友部町は現在でもJR水戸線と常磐線、北関東自動車道と常磐自動車道の交点となっているように、東西と南北の交通の要衝であることから、当地周辺が古代から繁栄していた可能性は高いと思われる(古代には、文化は上野国(現・群馬県)・下野国(現・栃木県)方面から伝播してきたと思う。)。


写真1:「廣慶寺」境内入口


写真2:同上、本堂。本尊:釈迦牟尼仏。


写真3:「高寺第2号古墳」。南側から見る。


写真4:同上、北側から見る。「廣慶寺」本堂の西北の墓地内にある。南向き斜面。


写真5:「小原神社(おばらじんじゃ)」鳥居と社号標。永徳元年(1381年)創建、旧称は「八龍神社」。祭神:高龗神・闇龗神・健速素盞嗚命。(場所:茨城県笠間市小原2234。「廣慶寺」の東、約250m)


写真6:同上、拝殿。


写真7:同上、本殿。


写真8:同上、境内の欅(ケヤキ)。境内にはケヤキの巨木が3本(1~3号)あり、これはその1号で、樹高約25m、目通り約7.1m、推定樹齢300年以上という。笠間市指定天然記念物。


写真9:「御城稲荷神社(みじょういなりじんじゃ)」鳥居。宝暦13年(1763年)創建。(場所:茨城県笠間市小原2193。「小原神社」の南、約350m)


写真10:同上、社殿。


写真11:「小原城」土塁跡。
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十王前横穴墓群(かんぶり穴)

2020-02-29 23:43:28 | 古墳
十王前横穴墓群(じゅおうまえおうけつぼぐん)。通称:かんぶり穴。
場所:茨城県日立市十王町伊師56他。国道6号線「小貝浜入口」交差点から約700m、十王川に架かる豊良橋を渡ったところで右折(北へ)、約300m。そこから徒歩で橋を渡って直ぐ(橋のところに案内柱が立てられている。)。川畔に駐車スペース有り。
「十王前横穴墓群」は、十王川に面する丘陵の西斜面の岩壁を横に彫り込んで造った墳墓で、現在29基が確認されている。特筆すべきは、3基(2号墳、11号墳、14墳)に三角形・菱形の紋様や武具などの線刻や、赤・黒・白の彩色がある装飾横穴墓と呼ばれるものであること。三角形・菱形は鎮魂や魔除けの意味があると言われているほか、刀・靫(ゆき。矢を入れて背負う道具)などとみられる線刻は被葬者の地位・性格を示しているのかもしれない。また、装飾古墳は九州北部に多いので、九州との関連性があるとされている。なお、造られたのは7世紀後半頃という。
ところで、「常陸国風土記」の逸文とされるものの1つに、次のような話がある(「塵袋」:鎌倉時代中期)。「昔、兄と妹が同じ日に田植えをした。遅い時間に植えた者は伊福部の神の崇りにあって殺されるぞ、と言われていたのに、妹は遅い時間から田植えを行った。その時、雷が落ちて妹を殺してしまった。兄は妹の仇を討とうと思ったが、雷神の居場所を知らない。その時、一羽の雌の雉(キジ)がやって来て兄の肩に止まった。績麻(をみ。紡いだ麻糸を環状に巻いたもの。俗に「へそ」という、とある。)を雉の尾羽根にかけると、雉は伊福部の岳(丘)に飛んで行った。兄が績麻の糸を辿っていくと、岩屋(洞窟)にたどり着いたので、中を覗くと雷神が寝ていた。兄が刀を抜いて雷神を斬ろうとすると、雷神はあわてて起き上がり、100年後まで、あなたの子孫には雷の被害がないようにしますと言って、命乞いをした。兄は雷神を許し、また雉に対しては、この恩を忘れないと誓ったので、それ以来、この地に住む者は雉を食べない。」(大意)。「塵袋」では「常陸国記」からの引用ということとなっているが、これが「常陸国風土記」であることにはほぼ異論がなく、また郡名もないが、「岩屋」(原文では「石屋」)というのが「かんぶり穴」のことであるという説が多い。それは、「かんぶり」というのが「雷震」を意味する「かんぶる」に由来することによるというものである(「かんぶる」については「賀毘礼之高峯」(2019年10月12日記事)参照)。また、「かんぶり穴」の北、約3.5kmのところに伊吹(イブキ)というヒノキ科の常緑樹の樹叢(国の天然記念物)があり、これを「イブキ山」と呼び、その西側に「いぶき台団地」という住宅団地がある。そして、今は「館山神社」(日立市川尻町)の境内社となっている「白山神社」が「お雉さま」と称され、地元の人は雉を食べない、と伝えられている。ただし、この「白山神社」は、現在は廃寺となっているが、常陸(水戸)三十三観音霊場の第16番札所であった真言宗「法徳山 長楽院 宝幢寺」(文明元年(1469年)開山)境内にあった「白山権現」が移されたものである(「宝幢寺」は今は無いが、同じ場所に日蓮宗「慈好山 蓮光寺」(日立市川尻町604ー2)がある。)。開基帳によれば、「白山権現」は「宝幢寺」開山の松橋坊俊意が文明4年(1472年)に勧請したものらしい。「白山神社」といえば、加賀国一宮「白山比咩神社」が総本社だろうが、キジが神使であるとは聞いたことがない。そこで、なぜ当地の「白山神社」が「お雉さま」と呼ばれるようになったのか不明だが、「宝幢寺」の信徒集めのために上記の「塵袋」の話を利用したのではないか、とも疑ってしまう。
それはさておき、上記の話自体にも、色々ツッコミ処がある。例えば、「伊福部の神」だが、「伊福部(いおきべ、いふくべ、いふきべ)」については、①笛吹きを担当した部民、②製鉄の際の踏鞴を吹く部民、③景行天皇の皇子である五百城入彦皇子(イオキイリヒコ)の名代の部民など諸説ある(ついでながら、「ゴジラ」の映画音楽の作曲家・伊福部昭を思い出す。)。ただし、ここでは、寧ろ日本武尊(ヤマトタケル)の伊吹山(現・滋賀県米原市)の話に関連があるのだろう。日本武尊は伊吹の神と対決に行く途中、大蛇(「日本書紀」による。「古事記」では巨大な白猪。)が現れるが、これを神使として相手にしなかったが、神そのものであって、氷雨を降らされ、病身となって下山する羽目になる。そして、その後、能褒野(のぼの。現・三重県亀山市)で亡くなる、という話である。大蛇といい、氷雨といい、水神・雷神に繋がるキーワードが出てくる。しかし、伊吹の神が日本武尊を弱らせるほどの力を見せたのに対して、「塵袋」の話では、妹を蹴殺した一方で、兄には刀で脅されただけで降参するような存在となっている。洞窟で寝ていた、というのも変と言えば変である。製鉄に関連しているとすれば、雷神とは鉄鉱石の鉱脈を探す山師で、夕刻に里に下りてきて女性を襲い、犯人を捜してやってきた兄に殺されかける、という話かもしれない。さて、本当に「常陸国風土記」にあった話なのだろうか。


写真1:「十王前横穴墓群」への道。十王川に架かる木橋を渡る。十王川では鮎(アユ)の天然遡上もみられるらしい。


写真2:同上、入口。「かんぶり穴を守る会」の皆さんが整備されているようで、竹のチップが敷き詰められて歩きやすい。なお、竹林には侵入厳禁(筍の盗掘があるらしい。以っての外。)。横穴墓群は、この奥の右手の斜面にある。


写真3:同上、1号墳? と説明版。この横穴墓には線刻等がない。少し屈めば、玄室の中に入れる。


写真4:同上、玄室内部。台形になっている。


写真5:同上、他の横穴墓。


写真6:同上。


写真7:「館山神社」(場所:茨城県日立市川尻町2374。国道6号線沿い、「豊浦中学校」入口の直ぐ西側)。鳥居と社号標、聖徳太子碑。なお、国道を隔てて向かい側に「蠶養神社(こがいじんじゃ)」があり、当地がわが国最初の養蚕の地であるとする。


写真8:同上、社殿。祭神:大山祇神。


写真9:「白山神社」(「館山神社」境内社。明治42年に「館山神社」と合併)。加賀国一宮「白山比咩神社」からの勧請と思われるが、祭神は白山比咩大神(菊理媛神)ではなく、伊弉冉命(イザナミ)とのこと。
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権現山古墳(茨城県東海村)

2020-01-25 23:29:52 | 古墳
権現山古墳(ごんげんやまこふん)。通称:村松権現山古墳。
場所:茨城県那珂郡東海村村松943-1他。茨城県道62号線(常陸那珂港山方線、通称:原研通り)と同284号線(豊岡佐和停車場線、通称:いちょう通り)の「村松」交差点から、284号線を南西に約500m。県道沿いに「素鵞神社」の鳥居と「権現山古墳」の説明板があるところ。駐車場なし。
「(村松)権現山古墳」は全長約87mの前方後円墳で、後円部径約45m・高さ約5.5m(前方部のデータ不明)、東海村では最大、茨城県内でも19番目という大きな古墳である。後円部西側裾部では周壕の痕跡が認められ、出土した円筒埴輪(県下で唯一、格子目タタキがあるもの)などから5世紀中頃の築造と推定されている。主体部は未調査で、当然ながら被葬者は不明であるが、その位置や大きさなどから那賀国造一族の墳墓であろうとされている。東海村指定史跡。なお、後円部墳頂には「素鵞神社」社殿と樹齢約200年という山桜(東海村指定天然記念物)がある。
因みに、当古墳の東側、「東海村 真崎コミュニティセンター」(駐車場有り)の南西側の丘に「真崎古墳群」があり、公園のようになっている。現在8基の古墳が確認されており、前方後方墳や六角墳(?!)とされるものもあるという。


茨城県のHPから(権現山古墳)


写真1:「素鵞神社」鳥居と「権現山古墳」説明板。古墳は南東向きで、こちらは後円部の西端辺り。


写真2:後円部西側。古墳の形に沿って道路が巡っている。


写真3:前方部西側からみる。括れがわかる。


写真4:前方部東側からみる。方形の形(かなり削られているようだが、それでも結構大きい。)と括れがわかる。


写真5:後円部東側から前方部を見る。


写真6:後円部墳頂。「素鵞神社」社殿と山桜の大樹がある。


写真7:後円部墳頂から前方部へ少し下りる。


写真8:前方部の尾根


写真9:前方部墳頂

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梵天山古墳(茨城県常陸太田市)

2019-08-17 23:14:03 | 古墳
梵天山古墳(ぼんてんやまこふん)。別名:梵天塚古墳。
場所:茨城県常陸太田市島町2317。茨城県道166号線(和田上河合線)「梵天山入口」交差点から南西へ(「梵天山厄除け大師」という大きな看板があり、矢印の方向へ)、約1.3km進んだところで(「梵天山 宝金剛院」という看板が出ている。)右折(北西へ)、突き当りを左折(西へ)直ぐのところに「宝金剛院」という寺院があり、その裏手に「梵天山古墳」がある。「宝金剛院」に駐車場有り。
「梵天山古墳」は、常陸太田市南西端の台地上にある「梵天山古墳群」(前方後円墳1基、円墳12基、横穴墓60数基)の主墳で、墳丘長約151m、後円部径約81m(高さ約13m)、前方部幅約56m(高さ約8m)という前方後円墳で、茨城県内第2位(第1位は石岡市の「舟塚山古墳」(墳丘長約186m。2018年2月10日記事)の規模という。なお、「宝金剛院」の建立により後円部の一部が削られたといわれ、後円部径は約90m、墳丘長も約160mの規模だった可能性があるらしい。発掘調査は行われていないが、葺石・埴輪・周溝はないとされる(周辺の古墳からは直刀などが出土しているとのこと。)。築造時期については、後円部に対して前方部が未発達という特徴から、古墳時代初期あるいは同前期とする説があり、具体的には5世紀前半~中期と推定されているようだ。被葬者については、その規模からみて、古くから久慈川流域を支配した首長の墳墓とされ、初代の久自(久慈)国造・船瀬足尼(フナセノスクネ)の墓と伝えられている。因みに、「先代旧事本紀」(平安時代初期成立?)の「国造本紀」によれば、第13代成務天皇の時代に物部氏の祖である伊香色雄命(イカガシコオ)の3世孫の船瀬足尼(船瀬宿禰)が初代久自国造に任命されたとされる。
蛇足:「水府志料」(小宮山楓軒著、江戸時代後期)によれば、当古墳は「亀の形に似ているというところから「金亀山」とも言い、亀を食べる者が登ると必ず怪我をする。このため、村人は亀を食べない。」という記述があるらしい。


常陸太田市観光物産協会のHPから(梵天山古墳群)

茨城県教育委員会のHPから(梵天山古墳群)


写真1:「梵天山 宝金剛院 性海寺」(真言宗豊山派、本尊:大日如来)境内入口


写真2:同上、本堂。「梵天山古墳」は、本堂の向かって左脇を抜けて、背後にある。


写真3:「梵天山古墳」墳頂への登り口。


写真4:鳥居を潜って後円部に上る。


写真5:後円部の墳頂にある祠。


写真6:後円部から前方部を見る。


写真7:前方部から後円部を見る。


写真8:後円部の下から前方部を見る。括れがわかる。


写真9:前方部(南から見る)。
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