神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

船玉古墳(茨城県筑西市)

2021-02-06 23:06:22 | 古墳
船玉古墳(ふなだまこふん)。船玉古墳群1号墳。
場所:茨城県筑西市船玉247。茨城県道15号線(結城下妻線)「船玉」交差点から県道を南に約400m、自動車販売店「ホンダカーズ筑西 関城店」の手前から(「県指定史跡 船玉古墳」の案内看板がある。)右折(西へ)、約240mのところで斜め右(北西へ)の道路に入り、約50m進んで左折(西へ)、約70m。駐車場なし。なお、県道から入った道路を直進して突き当りの「船玉田園都市センター」の駐車場が利用できるようだ。県道から先は、やや狭い道路となるので注意。
「船玉古墳」は、鬼怒川左岸(東岸)の河岸段丘上に立地する方墳で、一辺約35m、高さ約4mの規模。付近の7基の古墳(いずれも円墳)とともに船玉古墳群と呼ばれ、その1号墳とも称される。横穴式石室があって、羨道部、前室、玄室からなり、羨道部から玄室までの全長は約11.5m。石材は、筑波系の雲母片岩の板石で、県下でも最大規模の巨石という。江戸時代から石室が開口しており、玄室の奥壁と西壁とに壁画が描かれていたことから、明治時代に鳥居龍蔵らによって調査が行われ、赤や白の顔料で円文や靱(ゆぎ。矢を入れる武具)、舟と思われる絵などが描かれていたとされるが、永年の石室開口により現在では石材表面の剥離のため絵柄の判別は困難となっているとのこと。もし、本当に舟のようなものが描かれていたとすれば、あの世への旅立ちを示すものかもしれず、祭祀的・呪術的な要素が強まる。常陸国では、装飾(彩色・線画など)のある古墳や横穴は太平洋沿岸地域に多く、例えば「吉田古墳」(2018年3月17日記事)、「虎塚古墳」(2018年6月16日記事)、「十王前横穴墓群」(2020年2月29日記事)などがある。元々、装飾古墳などは北九州地域に多く、同地出身の豪族(多氏など)が移住してきたことの影響が指摘されている。その中で、当古墳は現・茨城県の県西地区にあり、上野国(現・群馬県)や下野国(現・栃木県)との関係が深く、貴重なものといえるだろう。当古墳の築造時期は7世紀中頃の推定されているが、もちろん被葬者は不明。昭和8年、茨城県指定文化財に指定。
なお、墳丘上に「船玉神社」が鎮座していたが、平成23年の東日本大震災により倒壊してしまった。地元民が再建しようとしたところ、県有地のため再建は不可、とされたとのことで、石段だけが残っている。仕方ないのだろうが、残念なことである。
また、古くから石室が開口していたためだろう、ここにも所謂「椀貸伝説」があるらしい。すなわち、この岩屋は入口は小さいが、奥に入ると広くなっていて、更に下に下っていく穴があって、そこが知れないという。そして、岩屋の入口で「膳椀を何人分お貸しください。」と祈って、翌日行くと、その通り椀が岩の上に置かれていた。ところが、貪欲な者がいて、椀を借りたのに長い間返さなかった。すると、夜な夜な「椀返せ」、「椀返せ」と言う声が聞こえ、それでも返さずにいると、借りた者の家運が傾き、廃れてしまったという。これは全国的にもある民話で、近いところでは、千葉県栄町の「岩屋古墳」など(「龍角寺古墳群」(2012年6月23日記事))。


茨城県教育委員会のHPから(船玉古墳)


写真1:「船玉古墳」


写真2:石段の横に石室の開口部(南側)、石碑、説明板がある。「船玉神社」が撤去される前に当古墳を紹介した画像と比べると、現状は全体的に荒廃感がある。県も、神社を再建させないなら、保存を万全にしてほしい。


写真3:開口部正面。


写真4:同上。開口部付近でも、かなり大きな板石が使われている。


写真5:南西側から。石仏も祀られている。


写真6:墳頂部。「船玉神社」が鎮座していたが、東日本大震災で倒壊、撤去されたままとなっている。平らにならされており、かなり削平されていたようだ。


写真7:わずかに神社の痕跡。


写真8:墳頂、北側から南を見る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐都ヶ岩屋古墳

2020-12-19 23:20:49 | 古墳
佐都ヶ岩屋古墳(さどがいわやこふん)。平沢古墳群1号墳。
場所:茨城県つくば市平沢584。茨城県道138号線(石岡つくば線)の「平沢官衙遺跡」(前項)入口付近から北東へ約400mのところで右折、以下、ゴルフ場「つくば国際CC」への案内看板の通り進む。約450mで同ゴルフ場入口手前に平沢古墳群の案内板があり、その道路の左側に2号墳、右側に(山道を2~3分歩いた奥に)3号墳がある。そこから「つくば国際CC」のクラブハウスに向かって急な坂道を約910m進んで、「4カーブ」という表示が出ているところの西側に1号墳(佐都ヶ岩屋古墳)がある。駐車場なし。
平沢古墳群は、筑波山の南、約5kmに位置する平沢山の北~東側斜面に分布する古墳群で、確認されたのは6基、現存は4基とされる。1~3号墳は道路から近く、観察しやすいのと、いずれも石室が開口しているのが特徴。当地には「三十六岩屋」という伝承があって、かつてはもっと多くの古墳が存在していたらしい。現存する4基のうち、1号墳の通称「佐都ヶ岩屋古墳」が最も大きく、南北約25m、東西約35m、高さ約7mの方墳とされる。南側に大きな板石を組み合わせた複室構造の横穴式石室が開口している。石室は、全長7.65m、奥室長2.15m、幅5.45m、前室長2.5m、幅2.1m、羨道長2.1m、幅2.1m、高さ1.7mという大きさで、奥室はT字形をしているとのこと。ゴルフ場の敷地の中にあるせいで、あまり訪問する人もないのか、雑草に覆われ、枯れ木が被さっていたりと、どこからどこまでが古墳なのか、どのくらいの大きさなのか、よくわからない。しかし、石室を見ると板石の積み方が精巧で、「平沢官衙遺跡」(前項)を見下ろす標高145mの場所にあることから、「平沢官衙遺跡」=筑波郡家に関係する有力者、つまり地元豪族出身の郡司等の墳墓の可能性が高いと思われる。築造時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、7世紀半ば~後半頃とみられている。因みに、7世紀半ば以降というと、所謂「大化の薄葬令」が出されたのが大化2年(646年)で、古墳が小型簡素化され、仏教式の葬礼も普及してくるにつれて、古墳自体が造られなくなっていく時期に当たる。
なお、開口した石室のある古墳を俗に「岩屋」といい、「佐都ヶ岩屋古墳」には、平将門の娘・瀧夜叉姫が隠れ住んだところという伝説があるとのこと。蛇足ながら、瀧夜叉姫は、歌舞伎などの創作上の人物で、京都「貴船明神」から妖術を授けられ、手下を集めて朝廷転覆を図ったという設定になっている。よって、この伝説も江戸時代頃のものだろうと思われる。


写真1:「平沢古墳群2号墳」。通称:「開山岩屋古墳」。


写真2:同上、石室開口部の前に立つ「法華一字一石経 雲外謹書」という刻字がある石柱。この先を下りていくと墓地があるが、現在、寺院は無い。代わりに「平澤八幡神社」があるが、境内に「石造六角地蔵宝幢」(茨城県指定文化財)などが現存するので、かつては寺院もあったのだろう。


写真3:同上、石室開口部。玄門の形が蓮弁を表現したもので、仏教の影響を受けているという説があるとのこと。


写真4:「平沢古墳群3号墳」。通称:「前島岩屋古墳」。一辺約19mの方墳とされる。なお、ここから南東側に少し下ったところに4号墳があるらしいが、よくわからず、行くのを断念した。


写真5:同上、石室開口部


写真6:石室内部に石仏が祀られていた。壁面に「大日堂」と刻されているとのことで、大日如来だろうか。古墳の、後世の再利用と思われる。


写真7:「佐都ヶ岩屋古墳(平沢古墳群1号墳)」。つくば市指定史跡。


写真8:同上、石室開口部


写真9:同上、


写真10:同上、石室内部。奥が明るいのは、天井板が無くなって太陽光が差し込んでいるため。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡塚古墳(茨城県つくば市)

2020-11-21 23:36:10 | 古墳
八幡塚古墳(はちまんづかこふん)。通称:沼田八幡塚古墳、筑波八幡塚古墳。
場所:茨城県つくば市沼田374ほか。茨城県道14号線(筑西つくば線)と同42号線(笠間つくば線)の交差点の南東、約140mのところ(農産物直売所の北端)から北東に向かう道路に入り、約150m進んで「従是筑波山道」という道標石があるところを右に(東へ)、約160mで「沼田保育所」などの看板のあるところを右折(南へ)、「沼田保育所」や「つくば市働く婦人の家」などの施設の裏側(北側)に回り込むと見えてくる。駐車場なし。
「(沼田)八幡塚古墳」は、筑波山南西麓、桜川左岸(東岸)にある前方後円墳で、桜川流域では最大クラス。前方部を南南東に向けているので、桜川から見れば、「筑波山」の手前に横たわるような形になっている。後円部墳頂に「八幡神社」(小祠であり、由緒不明)が祀られており、古墳名はこれに因む。前方部は遺存状態が悪かったため昭和53年度に推定復元されているが、これに先立って行われた発掘調査では、全長約90m、後円部径約58m、前方部長約32m、同先端幅約35mという大きさとなっている(つくば市教育委員会の現地説明板による。資料によって大きさに多少の違いがある。)。後円部は三段、前方部は二段以上の段丘構造で、裾部に葺石・埴輪の存在が認められた。周濠の存在は明確ではないが、東側にある「八幡池」は周濠の名残とみられており、人物埴輪の頭部が池の中から発見されたという。築造時期は、主体部の調査が行われていないため正確ではないが、出土埴輪や墳丘形状などから6世紀前半(古墳時代後期)頃と推定されている。筑波国造の領域では最大規模の古墳であり、初代筑波国造・阿閉色命(アヘシコ)の墳墓とする伝承がある。因みに、阿閉色命を初代国造とするのは 「先代旧事本紀 」の第10巻「国造本紀」筑波国造の条で、「志賀高穴穂朝(第13代・成務天皇)、阿閉色命を(筑波)国造に定め賜う」としている。なお、「常陸国風土記」では、元は「紀の国」といったが、第10代・崇神天皇代に物部氏の一族である筑箪命(ツクバ)が筑波国造に任ぜられ、その名を採って「筑波の国」というようになったとする説話を載せている。


茨城県のHPから(沼田八幡塚古墳)

茨城県教育員会のHPから(八幡塚)


写真1:「八幡塚古墳」(「八幡塚」の名で茨城県指定文化財に指定)。北東から見る。手前が後円部、後ろが前方部。


写真2:南西からみる。後円部。


写真3:南西から見る。前方部の角の部分。


写真4:南西から括れ部分、後円部を見る。右側(東側)に「八幡池」がある。


写真5:北東から見る。道路の突き当りが括れ部分。


写真6:前方部墳頂から後円部を見る。


写真7:後円部から前方部を見る。


写真8:「八幡神社」参道(後円部南東側)


写真9:後円部墳頂の「八幡神社」。覆い屋の下に小祠がある。


写真10:「八幡塚古墳」の西にある陪塚(「沼田幼稚園」の南)。約30mの円墳で、古墳上に小さな石祠があり、南側に横穴式石室が開口しているとされているが、訪問時には木が茂っていて確認できず。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金掘塚(茨城県つくば市)

2020-11-14 23:09:48 | 古墳
金掘塚(かねほりづか)。
場所:茨城県つくば市臼井。茨城県道139号線(筑波山公園線)沿い「つくば田井郵便局前」から、北へ県道を約1.2kmのところ(集落に入る手前のところ)を右折(東へ)、約400m。駐車場なし。
「金掘塚」は、筑波山南麓にある直径約12mの円墳で、横穴式石室が開口している。円墳というが、かなり削平されていて、航空写真で見ると西向きの前方後円墳のような形になっている。 直刀、勾玉、金環が出土しているという。
円墳として特に大きくというわけではなく、何か特徴があるというわけではないが、そのネーミングの面白さ(由来不明)とロケーションの良さから採り上げてみた。因みに、位置的には「六所皇大神宮霊跡地」(2020年10月10日記事)と「飯名神社」(2020年10月17日記事)の中間ぐらいにある。


写真1:「金掘塚」。南西側からみる。


写真2:南側から見る。北に筑波山の双耳峰がきれいに見える。


写真3:南東側から見る。


写真4:石室開口部


写真5:古墳上、東側から見る。


写真6:同上、西側から見る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲塚古墳(茨城県龍ケ崎市)(常陸国式外社・その10の1?)

2020-10-24 23:57:21 | 古墳
稲塚古墳(いなつかこふん)。
場所:茨城県龍ケ崎市八代町稲塚3903。茨城県道5号線(竜ヶ崎潮来線)と同68号線(美浦栄線)の「下八代」交差点から東に約80m、県道沿いの北側。駐車場なし。
「常陸国風土記」信太郡の条に「その里の西に飯名神社がある。これは筑波山におられる飯名神の分社である。」(現代語訳)という記載があり、これによって、現・茨城県つくば市の「飯名神社」が式外社とされるようになっている(前項)。「飯名神」についての記述は「常陸国風土記」筑波郡の条には無いが、もともと無かったのか、その部分が省略されてしまったのか不明である。一方、信太郡の方では原文に「飯名社」とあって、明確に神社が存在して信仰の対象になっていたことがわかる。ただし、その所在地については、「その里」というのがよくわからないので不明。その前の部分で地名らしいのは「葦原」くらいだが、これは「土俗の諺に『葦原の鹿肉は美味しい』とあり、食べてみると山の鹿肉とは違う」という記述であり、「葦原」は地名ではなく、一般名詞だろう。
ということなのだが、信太郡の方の式外社「飯名神社」については、古くから現・茨城県龍ケ崎市(旧・八原村)に存在する「稲塚古墳」上の「稲敷神社」と称する小祠に比定されてきた。「稲塚古墳」は現存するものの、民有地(個人住宅)内にあって非公開・参観謝絶ということなので、墳上の祠の現況も不明となっている。情報が少ないのだが、ネット等で調べると、古墳としては円墳で、径約14m、高さ4m。「稲塚古墳」のことかどうか確定できないが、「茨城縣に於ける古墳の分布」(川角寅吉著)という資料に「八原村大字八代字稲塚臺」の古墳の情報として「石棺中に白骨二人分あり」というのがある。「稲敷神社」については、民有地上の神社にも関わらず、戦前の神社明細帳に「無格社」とあって、「創建祭神不詳」、「大正10年に倒壊、後再建」という記載があるとのこと。また、内山信名(1787~1836年)著「新編常陸国誌」に「土地の人は、稲塚を筑波山と呼び、その頂上に石祠がある。」(現代語訳)などという記述がある。
以上の通り、「稲塚古墳」上に今も神社があるのか、あるとして、それは式外社「飯名神社」なのか、という問題は解決できないのだが、「飯名神社」が当地の地名の元になったというのが通説化している。まず、「八代町(やしろまち)」は「飯名神社」の「社(やしろ)」であり、近代以降の「稲敷郡」の「稲敷」は、「飯名神社」の敷地ということに由来するという。


写真1:「稲塚古墳」


写真2:近寄って見る。写真に写っていないが、塀の中にある。


写真3:記念碑のようなものが見える。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする