船玉古墳(ふなだまこふん)。船玉古墳群1号墳。
場所:茨城県筑西市船玉247。茨城県道15号線(結城下妻線)「船玉」交差点から県道を南に約400m、自動車販売店「ホンダカーズ筑西 関城店」の手前から(「県指定史跡 船玉古墳」の案内看板がある。)右折(西へ)、約240mのところで斜め右(北西へ)の道路に入り、約50m進んで左折(西へ)、約70m。駐車場なし。なお、県道から入った道路を直進して突き当りの「船玉田園都市センター」の駐車場が利用できるようだ。県道から先は、やや狭い道路となるので注意。
「船玉古墳」は、鬼怒川左岸(東岸)の河岸段丘上に立地する方墳で、一辺約35m、高さ約4mの規模。付近の7基の古墳(いずれも円墳)とともに船玉古墳群と呼ばれ、その1号墳とも称される。横穴式石室があって、羨道部、前室、玄室からなり、羨道部から玄室までの全長は約11.5m。石材は、筑波系の雲母片岩の板石で、県下でも最大規模の巨石という。江戸時代から石室が開口しており、玄室の奥壁と西壁とに壁画が描かれていたことから、明治時代に鳥居龍蔵らによって調査が行われ、赤や白の顔料で円文や靱(ゆぎ。矢を入れる武具)、舟と思われる絵などが描かれていたとされるが、永年の石室開口により現在では石材表面の剥離のため絵柄の判別は困難となっているとのこと。もし、本当に舟のようなものが描かれていたとすれば、あの世への旅立ちを示すものかもしれず、祭祀的・呪術的な要素が強まる。常陸国では、装飾(彩色・線画など)のある古墳や横穴は太平洋沿岸地域に多く、例えば「吉田古墳」(2018年3月17日記事)、「虎塚古墳」(2018年6月16日記事)、「十王前横穴墓群」(2020年2月29日記事)などがある。元々、装飾古墳などは北九州地域に多く、同地出身の豪族(多氏など)が移住してきたことの影響が指摘されている。その中で、当古墳は現・茨城県の県西地区にあり、上野国(現・群馬県)や下野国(現・栃木県)との関係が深く、貴重なものといえるだろう。当古墳の築造時期は7世紀中頃の推定されているが、もちろん被葬者は不明。昭和8年、茨城県指定文化財に指定。
なお、墳丘上に「船玉神社」が鎮座していたが、平成23年の東日本大震災により倒壊してしまった。地元民が再建しようとしたところ、県有地のため再建は不可、とされたとのことで、石段だけが残っている。仕方ないのだろうが、残念なことである。
また、古くから石室が開口していたためだろう、ここにも所謂「椀貸伝説」があるらしい。すなわち、この岩屋は入口は小さいが、奥に入ると広くなっていて、更に下に下っていく穴があって、そこが知れないという。そして、岩屋の入口で「膳椀を何人分お貸しください。」と祈って、翌日行くと、その通り椀が岩の上に置かれていた。ところが、貪欲な者がいて、椀を借りたのに長い間返さなかった。すると、夜な夜な「椀返せ」、「椀返せ」と言う声が聞こえ、それでも返さずにいると、借りた者の家運が傾き、廃れてしまったという。これは全国的にもある民話で、近いところでは、千葉県栄町の「岩屋古墳」など(「龍角寺古墳群」(2012年6月23日記事))。
茨城県教育委員会のHPから(船玉古墳)
写真1:「船玉古墳」
写真2:石段の横に石室の開口部(南側)、石碑、説明板がある。「船玉神社」が撤去される前に当古墳を紹介した画像と比べると、現状は全体的に荒廃感がある。県も、神社を再建させないなら、保存を万全にしてほしい。
写真3:開口部正面。
写真4:同上。開口部付近でも、かなり大きな板石が使われている。
写真5:南西側から。石仏も祀られている。
写真6:墳頂部。「船玉神社」が鎮座していたが、東日本大震災で倒壊、撤去されたままとなっている。平らにならされており、かなり削平されていたようだ。
写真7:わずかに神社の痕跡。
写真8:墳頂、北側から南を見る。
場所:茨城県筑西市船玉247。茨城県道15号線(結城下妻線)「船玉」交差点から県道を南に約400m、自動車販売店「ホンダカーズ筑西 関城店」の手前から(「県指定史跡 船玉古墳」の案内看板がある。)右折(西へ)、約240mのところで斜め右(北西へ)の道路に入り、約50m進んで左折(西へ)、約70m。駐車場なし。なお、県道から入った道路を直進して突き当りの「船玉田園都市センター」の駐車場が利用できるようだ。県道から先は、やや狭い道路となるので注意。
「船玉古墳」は、鬼怒川左岸(東岸)の河岸段丘上に立地する方墳で、一辺約35m、高さ約4mの規模。付近の7基の古墳(いずれも円墳)とともに船玉古墳群と呼ばれ、その1号墳とも称される。横穴式石室があって、羨道部、前室、玄室からなり、羨道部から玄室までの全長は約11.5m。石材は、筑波系の雲母片岩の板石で、県下でも最大規模の巨石という。江戸時代から石室が開口しており、玄室の奥壁と西壁とに壁画が描かれていたことから、明治時代に鳥居龍蔵らによって調査が行われ、赤や白の顔料で円文や靱(ゆぎ。矢を入れる武具)、舟と思われる絵などが描かれていたとされるが、永年の石室開口により現在では石材表面の剥離のため絵柄の判別は困難となっているとのこと。もし、本当に舟のようなものが描かれていたとすれば、あの世への旅立ちを示すものかもしれず、祭祀的・呪術的な要素が強まる。常陸国では、装飾(彩色・線画など)のある古墳や横穴は太平洋沿岸地域に多く、例えば「吉田古墳」(2018年3月17日記事)、「虎塚古墳」(2018年6月16日記事)、「十王前横穴墓群」(2020年2月29日記事)などがある。元々、装飾古墳などは北九州地域に多く、同地出身の豪族(多氏など)が移住してきたことの影響が指摘されている。その中で、当古墳は現・茨城県の県西地区にあり、上野国(現・群馬県)や下野国(現・栃木県)との関係が深く、貴重なものといえるだろう。当古墳の築造時期は7世紀中頃の推定されているが、もちろん被葬者は不明。昭和8年、茨城県指定文化財に指定。
なお、墳丘上に「船玉神社」が鎮座していたが、平成23年の東日本大震災により倒壊してしまった。地元民が再建しようとしたところ、県有地のため再建は不可、とされたとのことで、石段だけが残っている。仕方ないのだろうが、残念なことである。
また、古くから石室が開口していたためだろう、ここにも所謂「椀貸伝説」があるらしい。すなわち、この岩屋は入口は小さいが、奥に入ると広くなっていて、更に下に下っていく穴があって、そこが知れないという。そして、岩屋の入口で「膳椀を何人分お貸しください。」と祈って、翌日行くと、その通り椀が岩の上に置かれていた。ところが、貪欲な者がいて、椀を借りたのに長い間返さなかった。すると、夜な夜な「椀返せ」、「椀返せ」と言う声が聞こえ、それでも返さずにいると、借りた者の家運が傾き、廃れてしまったという。これは全国的にもある民話で、近いところでは、千葉県栄町の「岩屋古墳」など(「龍角寺古墳群」(2012年6月23日記事))。
茨城県教育委員会のHPから(船玉古墳)
写真1:「船玉古墳」
写真2:石段の横に石室の開口部(南側)、石碑、説明板がある。「船玉神社」が撤去される前に当古墳を紹介した画像と比べると、現状は全体的に荒廃感がある。県も、神社を再建させないなら、保存を万全にしてほしい。
写真3:開口部正面。
写真4:同上。開口部付近でも、かなり大きな板石が使われている。
写真5:南西側から。石仏も祀られている。
写真6:墳頂部。「船玉神社」が鎮座していたが、東日本大震災で倒壊、撤去されたままとなっている。平らにならされており、かなり削平されていたようだ。
写真7:わずかに神社の痕跡。
写真8:墳頂、北側から南を見る。