天羽衣神社(あまのはごろもじんじゃ)。祭神:天女之霊。
場所:静岡市駿河区中平松174。県道74号線(山脇大谷線、通称「大谷街道」)「西大谷」交差点を東に曲がり、約1.5km進む(この道は狭いが、「久能街道」。)。小さな水路を渡るところで北へ曲がり、正面。この道はとても狭く、当神社で行き止まりになるので注意。正面右手に空き地があるが、これが「久能天羽衣公園」だろうか。
当神社の創建年代は不明。「静岡市神社名鑑」(昭和51年6月)によれば、「昔、有度浜に天女が降りて遊んでいたところ、漁師伯梁に羽衣を隠されて天に帰ることができず、塩焼を業として年を経て没した。土地の人々は祠を立てて天人の宮と称して祀ったという。」(要旨)と、かなり素朴な話で、そもそも「天女」らしいところがない。
そのせいか、現在の説明板によれば、「昔、中平松の長右エ門という者が清水に塩を売りにいった帰り、駒越の浜で松の枝に掛かった羽衣を見つけて持ち帰った。天女は羽衣を取り戻すために長右エ門の家に奉公し、3年余り、取り戻す機会をうかがっていた。あるとき、長右エ門が浜に出た隙に羽衣を取り戻したが、長く下界に居て身が汚れて霊力を失い、天に昇れなくなっていた。このため、長右エ門に対して、天女を祀るならば永く守護神となろうと約束し、土地の氏神の八幡宮のお祓い(お清め)を受けて天に昇っていった。長右エ門は約束どおり「天人社」として祀り、その後、「天羽衣神社」に改めた。」(要旨)というようなことになっている。
羽衣を見つける男の名の「伯梁」というのは、中国風か朝鮮風な感じである。多分、元ネタが中国か朝鮮半島にあったか、あるいは、漢文を修めた知識人(僧侶など)が作った話なのかもしれない。それが「長右エ門」となると、ぐっと身近で、最近のことのような感じになる。
なお、当神社には、今も特殊神事として「羽衣の舞」が伝わるという。
写真1:「天羽衣神社」鳥居
写真2:社殿。鉄筋コンクリート造。
場所:静岡市駿河区中平松174。県道74号線(山脇大谷線、通称「大谷街道」)「西大谷」交差点を東に曲がり、約1.5km進む(この道は狭いが、「久能街道」。)。小さな水路を渡るところで北へ曲がり、正面。この道はとても狭く、当神社で行き止まりになるので注意。正面右手に空き地があるが、これが「久能天羽衣公園」だろうか。
当神社の創建年代は不明。「静岡市神社名鑑」(昭和51年6月)によれば、「昔、有度浜に天女が降りて遊んでいたところ、漁師伯梁に羽衣を隠されて天に帰ることができず、塩焼を業として年を経て没した。土地の人々は祠を立てて天人の宮と称して祀ったという。」(要旨)と、かなり素朴な話で、そもそも「天女」らしいところがない。
そのせいか、現在の説明板によれば、「昔、中平松の長右エ門という者が清水に塩を売りにいった帰り、駒越の浜で松の枝に掛かった羽衣を見つけて持ち帰った。天女は羽衣を取り戻すために長右エ門の家に奉公し、3年余り、取り戻す機会をうかがっていた。あるとき、長右エ門が浜に出た隙に羽衣を取り戻したが、長く下界に居て身が汚れて霊力を失い、天に昇れなくなっていた。このため、長右エ門に対して、天女を祀るならば永く守護神となろうと約束し、土地の氏神の八幡宮のお祓い(お清め)を受けて天に昇っていった。長右エ門は約束どおり「天人社」として祀り、その後、「天羽衣神社」に改めた。」(要旨)というようなことになっている。
羽衣を見つける男の名の「伯梁」というのは、中国風か朝鮮風な感じである。多分、元ネタが中国か朝鮮半島にあったか、あるいは、漢文を修めた知識人(僧侶など)が作った話なのかもしれない。それが「長右エ門」となると、ぐっと身近で、最近のことのような感じになる。
なお、当神社には、今も特殊神事として「羽衣の舞」が伝わるという。
写真1:「天羽衣神社」鳥居
写真2:社殿。鉄筋コンクリート造。