別雷神社(わけいかづちじんじゃ)。祭神:別雷神・玉依姫命。
場所:静岡県静岡市葵区七間町14-5。静岡市葵区役所の南西、約450m。駐車場なし。
式内社「大歳御祖神社」の論社。といっても、今は「別雷神社」と称し、別雷神を主祭神として祀るので、仮に当神社が元々は式内社「大歳御祖神社」であったとしても、その名の神社が別にあることから、そちらに遷座してしまったのだとされても已むを得ないだろうと思われる(「大歳御祖神社」の項(2010年11月26日記事)参照)。
社伝によれば、応神天皇4年(273年)、勅命により創建され、往古「大歳御祖大神」を祀った。大宝3年(703年)に創市された「安倍の市」の守護神として「安倍の市人」から奉斎されたという。時代は下るが、駿河国に侵攻した武田信玄には特に崇敬を受け、永禄年間に社殿が再建された際の「大歳御祖神社」と記された銅製の額などが今も保管されているらしい。したがって、当時、当神社が「大歳御祖神社」とされていたことは確実と思われる。
では何故、「別雷神社」となったのか。当神社の祭神は、別雷神・玉依姫命であり、京都の上・下鴨神社の祭神と同じだとする。そうすると、賀茂別雷大神(通称「上賀茂神社」、正式には「賀茂別雷神社」(式内社・名神大))とその母神である玉依姫命(通称「下鴨神社」、正式には「賀茂御祖神社」(式内社、山城国一宮))ということになる。当神社では、「別雷神社」であり、かつ式内社「大歳御祖神社」であるとしているので、大年神=賀茂別雷神であり、本来はその母神である玉依姫を祀った、ということになる。しかし、式内社「大歳御祖神社」の項で書いたように、「安倍の市人」が奉斎したとするなら、大歳御祖神の本名・神大市姫命の「市」の名に因んだもののはずである。また、賀茂別雷大神の系譜は「播磨国風土記」逸文にある物語で、「記・紀」にはない。大年神の系譜は「記・紀」にあって、比較的明快であり、大年神=雷神という話は出てこない。関連があるとすると、「中鴨神社」と俗称される式内社(名神大)「葛木御歳神社」(現・奈良県御所市)が、「御年神」を祀る代表的な神社であるということが挙げられる。
もっと直截的に、大年神=別雷神という話はないだろうか。例えば、次の逸話はどうだろうか。いわゆる「葦原中つ国平定」時の天若日子の話で、天若日子は高天原から派遣されたが、下照姫(大国主神と多紀理比売の娘)と結婚して8年も復命せず、結局殺されてしまう。その葬儀のとき、下照姫の兄である味耜高彦根神が弔問に訪れたが、天若日子とあまりにそっくりだったため、父が「天若日子が生き返った」と思って、味耜高彦根神に抱きついてしまった。これに怒った味耜高彦根神は剣を抜いて喪屋を切り倒した、という。この逸話は、元々、味耜高彦根神と天若日子は同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する「死と再生」を意味するものしたものという説があるらしい。これ即ち「年神」の性格を示していると言えないだろうか。この逸話の中で、下照姫は、兄の正体は巨大な蛇である、という(蛇神=雷神というのは常識。)。そして、味耜高彦根神こそ、別名「迦毛大御神(かものおおみかみ)」といい、葛城地方の鴨一族の祖神ということになる。ただし、葛城地方の鴨一族と京都の上・下鴨神社の鴨一族とは、もともと別系統であるとも言われているので、何だか混沌としてくる。
なお、「式内社調査報告(第9巻)」(昭和53年1月)では、「駿河國式社備考」を引いて、当神社は、元は有度郡加茂村に鎮座していたのを、中古、当地に遷したもので、安倍郡の式内社ではない、という説も紹介している。
さて、いつの頃からか、当神社は、明治維新前までは神仏混淆となっており、「竜相山雷電寺」を別当として「雷宮(いかづちのみや)」と呼ばれていたらしい(寺の本地堂には文殊菩薩が安置されていたという。)。明治17年には「雷神社(いかづちじんじゃ)」と改称、昭和21年に「別雷神社」となっている。
今でも静岡市の繁華街の中心部にあるが、江戸時代には駿府の「惣会所」があって、ここで府中の各町の町頭が交代で「年行事」となって自治運営を行うほか、町奉行所の指示を各町に伝達する役割を担っていたという。
玄松子さんのHP(別雷神社(静岡市)):http://www.genbu.net/data/suruga/wakeikaduti_title.htm
写真1:「別雷神社」正面
写真2:社号標は単に「別雷神社」
写真3:社殿
場所:静岡県静岡市葵区七間町14-5。静岡市葵区役所の南西、約450m。駐車場なし。
式内社「大歳御祖神社」の論社。といっても、今は「別雷神社」と称し、別雷神を主祭神として祀るので、仮に当神社が元々は式内社「大歳御祖神社」であったとしても、その名の神社が別にあることから、そちらに遷座してしまったのだとされても已むを得ないだろうと思われる(「大歳御祖神社」の項(2010年11月26日記事)参照)。
社伝によれば、応神天皇4年(273年)、勅命により創建され、往古「大歳御祖大神」を祀った。大宝3年(703年)に創市された「安倍の市」の守護神として「安倍の市人」から奉斎されたという。時代は下るが、駿河国に侵攻した武田信玄には特に崇敬を受け、永禄年間に社殿が再建された際の「大歳御祖神社」と記された銅製の額などが今も保管されているらしい。したがって、当時、当神社が「大歳御祖神社」とされていたことは確実と思われる。
では何故、「別雷神社」となったのか。当神社の祭神は、別雷神・玉依姫命であり、京都の上・下鴨神社の祭神と同じだとする。そうすると、賀茂別雷大神(通称「上賀茂神社」、正式には「賀茂別雷神社」(式内社・名神大))とその母神である玉依姫命(通称「下鴨神社」、正式には「賀茂御祖神社」(式内社、山城国一宮))ということになる。当神社では、「別雷神社」であり、かつ式内社「大歳御祖神社」であるとしているので、大年神=賀茂別雷神であり、本来はその母神である玉依姫を祀った、ということになる。しかし、式内社「大歳御祖神社」の項で書いたように、「安倍の市人」が奉斎したとするなら、大歳御祖神の本名・神大市姫命の「市」の名に因んだもののはずである。また、賀茂別雷大神の系譜は「播磨国風土記」逸文にある物語で、「記・紀」にはない。大年神の系譜は「記・紀」にあって、比較的明快であり、大年神=雷神という話は出てこない。関連があるとすると、「中鴨神社」と俗称される式内社(名神大)「葛木御歳神社」(現・奈良県御所市)が、「御年神」を祀る代表的な神社であるということが挙げられる。
もっと直截的に、大年神=別雷神という話はないだろうか。例えば、次の逸話はどうだろうか。いわゆる「葦原中つ国平定」時の天若日子の話で、天若日子は高天原から派遣されたが、下照姫(大国主神と多紀理比売の娘)と結婚して8年も復命せず、結局殺されてしまう。その葬儀のとき、下照姫の兄である味耜高彦根神が弔問に訪れたが、天若日子とあまりにそっくりだったため、父が「天若日子が生き返った」と思って、味耜高彦根神に抱きついてしまった。これに怒った味耜高彦根神は剣を抜いて喪屋を切り倒した、という。この逸話は、元々、味耜高彦根神と天若日子は同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する「死と再生」を意味するものしたものという説があるらしい。これ即ち「年神」の性格を示していると言えないだろうか。この逸話の中で、下照姫は、兄の正体は巨大な蛇である、という(蛇神=雷神というのは常識。)。そして、味耜高彦根神こそ、別名「迦毛大御神(かものおおみかみ)」といい、葛城地方の鴨一族の祖神ということになる。ただし、葛城地方の鴨一族と京都の上・下鴨神社の鴨一族とは、もともと別系統であるとも言われているので、何だか混沌としてくる。
なお、「式内社調査報告(第9巻)」(昭和53年1月)では、「駿河國式社備考」を引いて、当神社は、元は有度郡加茂村に鎮座していたのを、中古、当地に遷したもので、安倍郡の式内社ではない、という説も紹介している。
さて、いつの頃からか、当神社は、明治維新前までは神仏混淆となっており、「竜相山雷電寺」を別当として「雷宮(いかづちのみや)」と呼ばれていたらしい(寺の本地堂には文殊菩薩が安置されていたという。)。明治17年には「雷神社(いかづちじんじゃ)」と改称、昭和21年に「別雷神社」となっている。
今でも静岡市の繁華街の中心部にあるが、江戸時代には駿府の「惣会所」があって、ここで府中の各町の町頭が交代で「年行事」となって自治運営を行うほか、町奉行所の指示を各町に伝達する役割を担っていたという。
玄松子さんのHP(別雷神社(静岡市)):http://www.genbu.net/data/suruga/wakeikaduti_title.htm
写真1:「別雷神社」正面
写真2:社号標は単に「別雷神社」
写真3:社殿