神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

安倍の市

2010-12-07 21:35:25 | 史跡・文化財
安倍の市(あべのいち)。
場所:不明。静岡市葵区のどこか。(旧)「静岡縣史(第二巻)」(昭和5~11年、昭和47年11月復刻)によれば、「静岡市本町一丁目乃至五丁目に沿へる両替町の一部・上石町・梅屋町・人宿町・七間町方面に亙り、約方四百米(約一六ヘクタール)の範囲内」とする。一方、「静岡市史」(昭和56年12月)は、「大歳御祖神社の南に開けた参道(馬場町浅間通り)一帯」とする。考古学的な証拠がある訳ではないので、いずれも近世~現代までの商店街に、市の守護神である式内社「大歳御祖神社」の存在を加えた考証であろう。前者は、七間町の「別雷神社」の鎮座地が元の式内社「大歳御祖神社」の鎮座地であったと推定しているものと思われる。
「市」はもともと物々交換の場所から始まったとみられるが、大宝律令(701年)の中に「関市令」が規定され、京都では市司が置かれて市を監督することが決められた。地方でも同じような時期に、公認の「市」が形成されていっただろうと思われる。因みに、「市(いち)」という言葉は、「斎く(いつく)」=心身を清めて神に仕える、という言葉と関連があるとされ、神聖な場所だったという。
「安倍の市」の場所を考えるに当たり、もう一つ重要なポイントは、安倍川の水運がある。これまでも時々言及してきたが、かつて安倍川は、賤機山の南端の先から多くの枝川となって、東に向かって流れていた。枝川の中でも比較的大きな川がいくつかあったが、いわば本流ともいうべきものは、おそらく現在の「平成通り」辺りを南東に流れていたものと思う(安東・安西という地名は、安倍川の東西を言ったものという説が有力で、「平成通り」の延長上に川辺町、馬淵、稲川などといった地名がある。登呂遺跡付近を通って、河口は現在の大谷川の河口辺りか?)。安倍の市は、安倍川上流から木材や織物などが運ばれ、下流からは塩や海産物などが運ばれただろうと思われるので、「市」は川辺にあることが必須条件だっただろう。したがって、「静岡縣史」・「静岡市史」の推定も、大きくは隔たらないと思われる。
一説によれば、市の守護神、式内社「大歳御祖神社」は元々「別雷神社」の場所にあったが、安倍川の氾濫で社殿が流されたため、現在地に遷座したという。遷座するにしても、市と全く無関係の場所に祀るとは思えないので、市を見下ろす場所として現在地が選ばれたのかもしれない。
ところで、「安倍の市」を読み込んだ歌が万葉集にある。写真の石碑に刻まれた歌は「焼津邊 吾去鹿歯 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之児等羽裳」。通常、これは「焼津辺に わが行きしかば 駿河なる 阿倍の市道(いちぢ)に 逢いし児らはも」と読まれている。作者は春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)、元は弁基(または弁紀)という僧で、大宝元年(701年)に還俗し、その後、常陸介(常陸国の国司で、次官)となった。この歌は、常陸国での任期を終えて京都への帰路で(あるいは京都に戻ってからの回想で)詠んだものとみられている(赴任途中でのことという説もあるが、詳細は省略。)。歌の大意は「焼津辺りに行ったとき、安倍の市の繁華街で逢った可愛い女の子はどうしているかな~、また逢いたいな~(と思った。)」というようなことのようだが(解釈に諸説あり、例えば、この「女の子」というのが遊女だった、という説もある。)、「阿倍(安倍)」という地名は他にもあるが、「焼津」や「駿河」も詠み込まれているので、明らかに駿河国に「安倍の市」があったことがわかる。
それはともかく、写真の万葉歌碑は、現在、静岡浅間神社のいわゆる「石鳥居」の前にある「西草深公園」内にある。昭和36年に建立されたものだが、実は、建立時には別の場所にあった。元は、現在の静岡市葵区役所の南側に「静岡産業会館」があり、その前、即ち、青葉通りと呉服町通りの交差点付近にあった。「青葉公園」の整備に伴って、昭和62年に現在地に移されたのだが、なぜ「西草深公園」なのか。「静岡市史」に従って、式内社「大歳御祖神社」を含む静岡浅間神社近くに引き寄せたのだろうか?


写真1:「安倍の市」を詠み込んだ万葉歌碑(西草深公園内。場所:静岡市葵区西草深町27、駐車場なし)


写真2:「青葉緑地(青葉公園)」(場所:静岡市葵区呉服町二丁目地先、駐車場なし)。上の写真の万葉歌碑は、元は、この辺りにあった。「青葉公園」は今もイベント会場等としても利用され、賑わっているが、「静岡縣史」では、この公園の向かって右側(西側)辺りに「安倍の市」があったとする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする