神が宿るところ

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遠江国分寺跡

2012-01-07 22:07:21 | 寺院
遠江国分寺跡(とおとうみこくぶんじあと)。
場所:静岡県磐田市見付。JR東海道本線「磐田」駅北口から、真っ直ぐの道(県道58号線(袋井春野線))を北へ、約1km。磐田市役所の北側に広がる、原っぱのような場所。駐車場有り。
かつて遠江国の国府は、現・磐田市にあった。国庁の所在地は未確定であるが、「御殿・二之宮遺跡」(磐田市中泉)または現・磐田北小学校(磐田市見付)付近ともいわれている。いずれにせよ、天竜川と太田川に挟まれた、いわゆる磐田原台地の中央部に遠江国の中心があったことになる。
「遠江国分寺」は、聖武天皇の天平13年(741年)の詔によって全国に建立された国分寺の1つで、詔からほどなく現在地に建立されたようである。「類聚国史」によれば、弘仁10年(819年)に焼失した旨の記事があり、いったん諸堂が灰燼に帰したとされるが、延喜式に多額の寺料の記事があり、再建されて平安時代にはなお大寺であったものらしい。しかし、室町時代以降は次第に衰え、特に戦国時代には、武田軍と徳川軍の対峙の際に、武田方に味方したため徳川方から焼き討ちされたともいい、相当衰微していったようである。江戸時代末には、天台宗「東叡山 寛永寺」の末寺となっていたが、明治初年の廃仏毀釈により無住の廃寺に追い込まれた。村人が「薬師堂」一宇のみを守っていたが、大正12年に内務省告示により史蹟に指定されたことから、「参慶山 普賢延命院 国分寺」(本尊:薬師如来)として復興し、宗派も新義真言宗に改めた。しかし、寺域の調査等も不十分であったところ、その中心付近を東西に走る道路が計画され、昭和26年に発掘調査が行われた。その結果、金堂、講堂、中門、回廊、塔などの址が良好な形で発見され、全国的な国分寺研究に画期的な意義を有するものであることがわかった。それによると、寺域は方2町(約218m)、北から講堂、金堂、中門、南大門が南北一直線に配され、金堂と中門は回廊でつながっており、その回廊の西側には塔が建てられていたらしい(いわゆる東大寺式伽藍配置)。驚くのは、塔の基壇が方52尺(約16m)とされ、ここから、七重塔の高さが224尺(約68m)と推定されたことである(石田茂作氏の推定による。)。現在、江戸時代以前の木造七重塔は存在せず、京都・「教王護国寺(東寺)」の五重塔(約55m)よりも10m以上も高い塔があったことになる。
さて、「片山廃寺跡」を「駿河国分寺」跡とできない大きな理由として、塔址が発見できないことがあげられているが、「遠江国分寺跡」の例からすると、回廊の外、(遠江とは違って)東側にあったとすれば、位置的には現在の「白山神社」付近、あるいは、その西側付近ということになる。最近、それらしい発見もあったようだが、今後も十分な調査を期待したい(「駿河国分寺」(2011年5月31日記事参照)。
参考文献:「新修国分寺の研究 第二巻」(平成3年11月)


磐田市のHPから(遠江国分寺跡)

遠江四十九薬師奉賛会さんのHPから(国分寺)


写真1:「史蹟遠江國分寺址」の石碑。広い史跡公園の東南の入口。


写真2:主要な伽藍があった場所だが、今は何もない。正面奥に見える案内板が「金堂跡」を示す。向って右奥に見える木造建物は「参慶山 国分寺」の「薬師堂」。


写真3:塔跡


写真4:塔心礎。自然のままでなく、かなり加工されたもののようだ。


写真5:「参慶山 国分寺」入口。「遠江四十九薬師霊場」第一番札所となっている。


写真6:薬師堂脇にある手洗石。もとは国分寺の礎石だったという。
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