真間山 弘法寺(ままさん ぐほうじ)。
場所:千葉県市川市真間4-9-1。JR「市川」駅の北、約1.2km。駐車場あり。
寺伝によれば、天平9年(737年)に行基が真間の手児奈の霊(次項記事で書く予定)を供養するために一堂を建立し、「求法寺(ぐほうじ)」と名づけたのを創始とする。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が七堂伽藍を整備し「弘法寺」と改称したが、元慶5年(881年)には天台宗に改宗したという。建治元年(1275年)には、時の住持・了性法印が「法華経寺」(現・市川市中山)の富木常忍との法論に敗れ、日頂上人を開基として日蓮宗に改宗した。本尊は一尊四士像(釈迦如来と四菩薩)と伝える。
国府台台地の南端にあり、石段を上ったところに立派な仁王門がある。明治21年に諸堂が火災に遭ったが、仁王門は焼失を免れた。「真間山」の扁額は空海筆という。江戸時代には、紅葉の名所であり、樹齢400年以上という「伏姫桜」も有名である。考古学ファンには、境内にある「弘法寺古墳」などでも知られる。国府台台地には下総国府があり、須和田台地と繋がる辺りに葛飾郡家もあったとされている(2013年1月12日記事)ことから、行基・空海は伝説に過ぎないとしても、前身の古代寺院があったかもしれない。
なお、弘法寺古墳は、全長43m、後円部径20m、前方部幅15mの前方後円墳で、築造時期は6世紀後半~7世紀前半とされる。崖ギリギリにあり、南側は半ば崩壊している。後円部径20mというのは推定で、現存しているのは8mのみという。
真間山弘法寺のHP
写真1:「弘法寺」仁王門
写真2:真新しい本殿
写真3:境内にある「弘法寺古墳」。東側から見る。左手前が後円部
写真4:同上、西側から見る。前方部
写真5:石段の下から27段目にある「涙石」。この石だけ、いつも濡れている。江戸時代、作事奉行の鈴木修理長頼が日光東照宮の造営のために使う石材を運ぶ途中、無断で「弘法寺」の石段に寄進してしまった。長頼は切腹を命じられ、この石段に血と涙が染み込んで濡れているのだという。実際には、台地から滲み出す水脈に触れているらしい。
場所:千葉県市川市真間4-9-1。JR「市川」駅の北、約1.2km。駐車場あり。
寺伝によれば、天平9年(737年)に行基が真間の手児奈の霊(次項記事で書く予定)を供養するために一堂を建立し、「求法寺(ぐほうじ)」と名づけたのを創始とする。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が七堂伽藍を整備し「弘法寺」と改称したが、元慶5年(881年)には天台宗に改宗したという。建治元年(1275年)には、時の住持・了性法印が「法華経寺」(現・市川市中山)の富木常忍との法論に敗れ、日頂上人を開基として日蓮宗に改宗した。本尊は一尊四士像(釈迦如来と四菩薩)と伝える。
国府台台地の南端にあり、石段を上ったところに立派な仁王門がある。明治21年に諸堂が火災に遭ったが、仁王門は焼失を免れた。「真間山」の扁額は空海筆という。江戸時代には、紅葉の名所であり、樹齢400年以上という「伏姫桜」も有名である。考古学ファンには、境内にある「弘法寺古墳」などでも知られる。国府台台地には下総国府があり、須和田台地と繋がる辺りに葛飾郡家もあったとされている(2013年1月12日記事)ことから、行基・空海は伝説に過ぎないとしても、前身の古代寺院があったかもしれない。
なお、弘法寺古墳は、全長43m、後円部径20m、前方部幅15mの前方後円墳で、築造時期は6世紀後半~7世紀前半とされる。崖ギリギリにあり、南側は半ば崩壊している。後円部径20mというのは推定で、現存しているのは8mのみという。
真間山弘法寺のHP
写真1:「弘法寺」仁王門
写真2:真新しい本殿
写真3:境内にある「弘法寺古墳」。東側から見る。左手前が後円部
写真4:同上、西側から見る。前方部
写真5:石段の下から27段目にある「涙石」。この石だけ、いつも濡れている。江戸時代、作事奉行の鈴木修理長頼が日光東照宮の造営のために使う石材を運ぶ途中、無断で「弘法寺」の石段に寄進してしまった。長頼は切腹を命じられ、この石段に血と涙が染み込んで濡れているのだという。実際には、台地から滲み出す水脈に触れているらしい。