手児奈霊神堂(てこなれいじんどう)。略して「手児奈霊堂」、「手児奈堂」ともいう。
場所:千葉県市川市真間4-5-21。JR「市川」駅の北、約1km。駐車場有り。
「真間山 弘法寺」(前項)の寺伝によれば、同寺は天平9年(737年)に行基が真間の手児奈の霊を祀る堂宇を建てたのを創始とする。もちろん、これは伝説に過ぎないが、真間の手児奈は万葉集(8世紀後半頃成立?)にも詠われている有名な美女であった。
「我も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城ところ」(山部赤人)
「葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思ほゆ」(同)
「葛飾の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂)
ただし、万葉集の歌人が詠った当時から、手児奈は「古(いにしへ)にありけむ人」(昔、居たという人)という、既に伝説の人物になっていた。
現在の「手児奈霊神堂」は「真間山 弘法寺」に属し、略縁起によれば、文亀元年(1501年)に同寺第7世日与上人の夢枕に手児奈の霊が現れたことから、良縁成就や安産などの守護神として祀ったものとされる。そこでいう「手児奈伝説」は凡そ次の通りである。即ち、舒明天皇の頃(在位:629~641年)、当地の国造の娘で手児奈という美しい姫がいた。その噂を聞いて、隣国の国造が息子の嫁に迎えた。しかし、この国造同士が不仲となり、手児奈は疎まれ、騙されて舟に乗せられ海に流された。手児奈は身籠っており、舟の中で子を産んだ。舟は真間の入江に流れ着き、その浜辺で母子静かに暮らそうとしたが、手児奈の美しさに言い寄る男が数知れず、ついに思い余り、海に身を投げて亡くなった、というものである。
しかし、「手児奈伝説」にはヴァリエーションがあって、手児奈自身について、清純な乙女、巫女から妖艶な人妻、遊女まで、身分も高貴な姫から貧しい村娘まで様々である。「手児奈霊神堂」の伝説については、同堂自体が、実際には江戸時代に寺の経済基盤を固めるため観光収入を増やそうとしたものともいい(江戸時代には、寺領はわずか50石だったらしい。)、そうしたことを念頭に置いて脚色されたものと思われる。手児奈が海上で出産するというエピソードを織り込みながら、手児奈の死後、その子がどうなったかには触れられていないのも、単に手児奈を安産の守護神にしたかったからとしか思えない。巫女説というのは、手児奈が当地の神に仕える神聖処女であった、とする考え方で、だからこそ、言い寄ってくる男を拒絶したのだとする訳である。一方、遊女説は、入水自殺までに何人かとの相手をしただろうという想像によるようだ。まあ、巫女説も遊女説も極端で、多分、古代には恋愛におおらかだったので、美女には言い寄る男が多く、また、複数の男と付き合うことをやましく感じないという時代性が背景があり、にも関わらず、それを苦に入水自殺するということに驚きがあったのだろう。ところで、「てこ」というのは若い女性を指し、「な」は美しいという意味があるというので、手児奈という名も固有名詞ではないのかもしれないらしい。
さて、上記の高橋虫麻呂の歌にあるように、手児奈は国府台台地の上に住んでいて、毎朝、台地下にある「真間の井」に水を汲みにきていたという伝説もある。台地上は暮らしやすいが、水に困ることが多い。また、真間の低地は入江の湿地で、井戸も塩分を含んでいることが多かったという。その中で、「真間の井」と呼ばれる井戸は良質の飲料水が湧いていたとされ、それが現在も「手児奈霊神堂」近くの「亀井院」にある。「亀井院」は寛永15年(1638年)頃、「弘法寺」第11世の日立上人が貫主の隠居寺として建てられ、「真間の井」に因んで「瓶井院」または「瓶井坊」と称したという。その後、「弘法寺」の大檀那であった鈴木長常を葬った際、「鈴木院(れいぼくいん)」と改称した。鈴木長常の息子である鈴木長頼が、「日光東照宮」のための石材を「弘法寺」の石段に流用したことを幕府に咎められて切腹した(前項、「弘法寺」の写真5「涙石」を参照)後、現在の「亀井院」と改称したとされる。井戸から、霊亀が出現したからという。かつて「弘法寺」には支院が10余宇あったが、今では「亀井院」のみが現存しているとのことである。
市川市のHPから(市川の昔話「真間の手児奈」)
手児奈霊神堂のHP
写真1:「手児奈霊神堂」境内入口。真間三碑(真間万葉顕彰碑)の1つが右下に見える。
写真2:「手児奈霊神堂」
写真3:同上、境内の池。「真間の入江」の名残りと言われ、どんな日照りでも水が枯れることがないという。
写真4:「亀井院」境内入口。真間三碑(真間万葉顕彰碑)の1つが左下に見える。
写真5:同上、本堂。
写真6:同上、境内にある「真間の井」。
場所:千葉県市川市真間4-5-21。JR「市川」駅の北、約1km。駐車場有り。
「真間山 弘法寺」(前項)の寺伝によれば、同寺は天平9年(737年)に行基が真間の手児奈の霊を祀る堂宇を建てたのを創始とする。もちろん、これは伝説に過ぎないが、真間の手児奈は万葉集(8世紀後半頃成立?)にも詠われている有名な美女であった。
「我も見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児奈が 奥津城ところ」(山部赤人)
「葛飾の 真間の入江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思ほゆ」(同)
「葛飾の 真間の井見れば 立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂)
ただし、万葉集の歌人が詠った当時から、手児奈は「古(いにしへ)にありけむ人」(昔、居たという人)という、既に伝説の人物になっていた。
現在の「手児奈霊神堂」は「真間山 弘法寺」に属し、略縁起によれば、文亀元年(1501年)に同寺第7世日与上人の夢枕に手児奈の霊が現れたことから、良縁成就や安産などの守護神として祀ったものとされる。そこでいう「手児奈伝説」は凡そ次の通りである。即ち、舒明天皇の頃(在位:629~641年)、当地の国造の娘で手児奈という美しい姫がいた。その噂を聞いて、隣国の国造が息子の嫁に迎えた。しかし、この国造同士が不仲となり、手児奈は疎まれ、騙されて舟に乗せられ海に流された。手児奈は身籠っており、舟の中で子を産んだ。舟は真間の入江に流れ着き、その浜辺で母子静かに暮らそうとしたが、手児奈の美しさに言い寄る男が数知れず、ついに思い余り、海に身を投げて亡くなった、というものである。
しかし、「手児奈伝説」にはヴァリエーションがあって、手児奈自身について、清純な乙女、巫女から妖艶な人妻、遊女まで、身分も高貴な姫から貧しい村娘まで様々である。「手児奈霊神堂」の伝説については、同堂自体が、実際には江戸時代に寺の経済基盤を固めるため観光収入を増やそうとしたものともいい(江戸時代には、寺領はわずか50石だったらしい。)、そうしたことを念頭に置いて脚色されたものと思われる。手児奈が海上で出産するというエピソードを織り込みながら、手児奈の死後、その子がどうなったかには触れられていないのも、単に手児奈を安産の守護神にしたかったからとしか思えない。巫女説というのは、手児奈が当地の神に仕える神聖処女であった、とする考え方で、だからこそ、言い寄ってくる男を拒絶したのだとする訳である。一方、遊女説は、入水自殺までに何人かとの相手をしただろうという想像によるようだ。まあ、巫女説も遊女説も極端で、多分、古代には恋愛におおらかだったので、美女には言い寄る男が多く、また、複数の男と付き合うことをやましく感じないという時代性が背景があり、にも関わらず、それを苦に入水自殺するということに驚きがあったのだろう。ところで、「てこ」というのは若い女性を指し、「な」は美しいという意味があるというので、手児奈という名も固有名詞ではないのかもしれないらしい。
さて、上記の高橋虫麻呂の歌にあるように、手児奈は国府台台地の上に住んでいて、毎朝、台地下にある「真間の井」に水を汲みにきていたという伝説もある。台地上は暮らしやすいが、水に困ることが多い。また、真間の低地は入江の湿地で、井戸も塩分を含んでいることが多かったという。その中で、「真間の井」と呼ばれる井戸は良質の飲料水が湧いていたとされ、それが現在も「手児奈霊神堂」近くの「亀井院」にある。「亀井院」は寛永15年(1638年)頃、「弘法寺」第11世の日立上人が貫主の隠居寺として建てられ、「真間の井」に因んで「瓶井院」または「瓶井坊」と称したという。その後、「弘法寺」の大檀那であった鈴木長常を葬った際、「鈴木院(れいぼくいん)」と改称した。鈴木長常の息子である鈴木長頼が、「日光東照宮」のための石材を「弘法寺」の石段に流用したことを幕府に咎められて切腹した(前項、「弘法寺」の写真5「涙石」を参照)後、現在の「亀井院」と改称したとされる。井戸から、霊亀が出現したからという。かつて「弘法寺」には支院が10余宇あったが、今では「亀井院」のみが現存しているとのことである。
市川市のHPから(市川の昔話「真間の手児奈」)
手児奈霊神堂のHP
写真1:「手児奈霊神堂」境内入口。真間三碑(真間万葉顕彰碑)の1つが右下に見える。
写真2:「手児奈霊神堂」
写真3:同上、境内の池。「真間の入江」の名残りと言われ、どんな日照りでも水が枯れることがないという。
写真4:「亀井院」境内入口。真間三碑(真間万葉顕彰碑)の1つが左下に見える。
写真5:同上、本堂。
写真6:同上、境内にある「真間の井」。