清明稲荷(せいめいいなり)。
場所:千葉県銚子市陣屋町。「飯沼観音」こと「圓福寺」本堂の門前(西側)に「新生仲通り」という道路があり、その中央緑地帯の端に鎮座。「圓福寺」仁王門から徒歩2分程度。駐車場なし。
明和元年(1764年)、旧飯沼村の森田家により建立されたものとされ、平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明所縁の神社というのだが、どういう契機で創建されたのかは明らかでない。ただ、銚子港にも近く、当神社に祈願すると大漁になったとされ、土地の漁師達の信仰が篤かったという。
実は、現・千葉県銚子市には安倍晴明にまつわる伝説があり、関係する史跡もいくつかある。それについては次項以降に書く予定だが、まず、安倍晴明に関する基礎情報から。
安倍晴明の名が概ね信頼できる史料に初めて登場するのは天徳4年(960年)で、このとき晴明は「天文得業生」(陰陽寮で天文道を学ぶ官職)であった(「中右記」による。)。それ以前の動静は不明で、そもそも生年・生地もわかっていない。多くの年表で生年が延喜21年(921年)とされているのは、寛弘2年(1005年)に85歳で亡くなったとされているところからの逆算である。生地は一般に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)とされるが、讃岐国(現・香川県)・常陸国(現・茨城県)など諸説ある。系譜も必ずしも明らかでないが、孝元天皇の皇子・大彦命を祖先とする阿倍氏(平安時代から「安倍」と称する。)に連なり、父は大膳大夫(朝廷で臣下に対する饗膳を供する役所の長官)・安倍益材であるとされる。遣唐使・阿部仲麻呂(中国で憤死し、鬼となって吉備真備を助けたという伝説で有名。)の子孫であるとか、母が白狐であるとかの話もあるが、晴明を神秘化するための伝説に過ぎない。しかし、晴明が狐の子であるという伝説は広く流布しており、狐の正体がバレて母子別れのときに残した「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太(しのだ)の森の うらみ葛の葉」というのに因んで「信太妻伝説」または「葛の葉伝説」などともいう。
ところで、「清明稲荷」もそうだが、「晴明」ではなく、伝説では「清明」という名になっていることが多い。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読み(慣例に従った読み方)で、本来どう称していたかは不明だが、「はれあきら」か「はるあきら」と読んでいただろうと思われる。そうすると、「清明」は単なる誤字等ではない。伝説や浄瑠璃等では、天皇から「清明節」に因んで「清明」の名を賜ったとか、清浄の意味を込めて自ら「清明」に改名したということになっているが、確実な史料はなく、史実とは言い難い。どうやら、陰陽道の秘伝書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」、略して「簠簋内伝」または「金烏玉兎集」には、巻頭に「天文司郎 安部博士 吉備後胤 清明朝臣 撰」とあり、晴明自身が著者(あるいは編纂者)と伝えられたことが大きいようだ。この書物は鎌倉時代末期~南北朝時代頃の偽書だが、晴明の子孫が陰陽道を支配して一種の「家元」となり、「土御門家」という公家の地位まで登りつめる一方で、在野の陰陽師達が自らの権威付けのために(勝手に)晴明を始祖として盛んに喧伝したことの反映であろうと思われる。そこでは、晴明が狐の子であるという伝説も、超能力を説明する根拠として使われたのだろう。
さて、慶長年間(1596~1615年)頃に成立したとされる「簠簋抄」(「簠簋内伝」の注釈書)の冒頭の「由来」に晴明伝が記載されている。上記の「葛の葉伝説」も記されているのだが、晴明の生地を常陸国猫島(現・茨城県筑西市(旧・明野町)猫島)としている。現・千葉県銚子市の北西、約90km(直線距離)のところである。また、常陸国には「信太(しだ)郡」があった。「常陸国風土記」によれば、白雉4年(653年)に物部河内・物部会津らの請願によって筑波郡・茨城郡から七百戸を割いて設置されたという、古くからの地名である。現在の茨城県稲敷郡阿見町・美浦村を中心とする霞ヶ浦南岸の地域らしい。上記の歌では、わざわざ「和泉なる」(和泉国にある)としているので、「信太の森」は常陸国ではないはずだが、混同されたかもしれない。なお、常陸国南部~下総国北部は平将門(903?~940年)の本拠地であるところから、晴明が将門の子であったとする説もあるようだが、これは流石に「トンデモ」の類であろう。
(参考文献)
斎藤英喜「安倍晴明」(ミネルヴァ書房)
藤巻一保「安倍晴明」(学習研究社)
田中貴子「安倍晴明の一千年」(講談社)
沖浦和光「陰陽師の原像」(岩波書店) ほか多数
写真1:「清明稲荷」。実は、何回か訪問しており、以前は木造の鳥居だったが・・・
写真2:同上。再訪したところ、立派な石造の鳥居に建て替えられていて吃驚。
写真3:(参考)「安倍晴明生誕の地」(場所:茨城県筑西市猫島。「明野ゴルフクラブ」の東、約600m)。安倍晴明が架けたという「晴明橋」(どんな大水が出ても、水位が橋を越えることがなかったと伝える。)の一部を復元した「晴明橋公園」になっている。駐車場もある。
場所:千葉県銚子市陣屋町。「飯沼観音」こと「圓福寺」本堂の門前(西側)に「新生仲通り」という道路があり、その中央緑地帯の端に鎮座。「圓福寺」仁王門から徒歩2分程度。駐車場なし。
明和元年(1764年)、旧飯沼村の森田家により建立されたものとされ、平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明所縁の神社というのだが、どういう契機で創建されたのかは明らかでない。ただ、銚子港にも近く、当神社に祈願すると大漁になったとされ、土地の漁師達の信仰が篤かったという。
実は、現・千葉県銚子市には安倍晴明にまつわる伝説があり、関係する史跡もいくつかある。それについては次項以降に書く予定だが、まず、安倍晴明に関する基礎情報から。
安倍晴明の名が概ね信頼できる史料に初めて登場するのは天徳4年(960年)で、このとき晴明は「天文得業生」(陰陽寮で天文道を学ぶ官職)であった(「中右記」による。)。それ以前の動静は不明で、そもそも生年・生地もわかっていない。多くの年表で生年が延喜21年(921年)とされているのは、寛弘2年(1005年)に85歳で亡くなったとされているところからの逆算である。生地は一般に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)とされるが、讃岐国(現・香川県)・常陸国(現・茨城県)など諸説ある。系譜も必ずしも明らかでないが、孝元天皇の皇子・大彦命を祖先とする阿倍氏(平安時代から「安倍」と称する。)に連なり、父は大膳大夫(朝廷で臣下に対する饗膳を供する役所の長官)・安倍益材であるとされる。遣唐使・阿部仲麻呂(中国で憤死し、鬼となって吉備真備を助けたという伝説で有名。)の子孫であるとか、母が白狐であるとかの話もあるが、晴明を神秘化するための伝説に過ぎない。しかし、晴明が狐の子であるという伝説は広く流布しており、狐の正体がバレて母子別れのときに残した「恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太(しのだ)の森の うらみ葛の葉」というのに因んで「信太妻伝説」または「葛の葉伝説」などともいう。
ところで、「清明稲荷」もそうだが、「晴明」ではなく、伝説では「清明」という名になっていることが多い。「晴明」を「せいめい」と読むのは有職読み(慣例に従った読み方)で、本来どう称していたかは不明だが、「はれあきら」か「はるあきら」と読んでいただろうと思われる。そうすると、「清明」は単なる誤字等ではない。伝説や浄瑠璃等では、天皇から「清明節」に因んで「清明」の名を賜ったとか、清浄の意味を込めて自ら「清明」に改名したということになっているが、確実な史料はなく、史実とは言い難い。どうやら、陰陽道の秘伝書「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集」、略して「簠簋内伝」または「金烏玉兎集」には、巻頭に「天文司郎 安部博士 吉備後胤 清明朝臣 撰」とあり、晴明自身が著者(あるいは編纂者)と伝えられたことが大きいようだ。この書物は鎌倉時代末期~南北朝時代頃の偽書だが、晴明の子孫が陰陽道を支配して一種の「家元」となり、「土御門家」という公家の地位まで登りつめる一方で、在野の陰陽師達が自らの権威付けのために(勝手に)晴明を始祖として盛んに喧伝したことの反映であろうと思われる。そこでは、晴明が狐の子であるという伝説も、超能力を説明する根拠として使われたのだろう。
さて、慶長年間(1596~1615年)頃に成立したとされる「簠簋抄」(「簠簋内伝」の注釈書)の冒頭の「由来」に晴明伝が記載されている。上記の「葛の葉伝説」も記されているのだが、晴明の生地を常陸国猫島(現・茨城県筑西市(旧・明野町)猫島)としている。現・千葉県銚子市の北西、約90km(直線距離)のところである。また、常陸国には「信太(しだ)郡」があった。「常陸国風土記」によれば、白雉4年(653年)に物部河内・物部会津らの請願によって筑波郡・茨城郡から七百戸を割いて設置されたという、古くからの地名である。現在の茨城県稲敷郡阿見町・美浦村を中心とする霞ヶ浦南岸の地域らしい。上記の歌では、わざわざ「和泉なる」(和泉国にある)としているので、「信太の森」は常陸国ではないはずだが、混同されたかもしれない。なお、常陸国南部~下総国北部は平将門(903?~940年)の本拠地であるところから、晴明が将門の子であったとする説もあるようだが、これは流石に「トンデモ」の類であろう。
(参考文献)
斎藤英喜「安倍晴明」(ミネルヴァ書房)
藤巻一保「安倍晴明」(学習研究社)
田中貴子「安倍晴明の一千年」(講談社)
沖浦和光「陰陽師の原像」(岩波書店) ほか多数
写真1:「清明稲荷」。実は、何回か訪問しており、以前は木造の鳥居だったが・・・
写真2:同上。再訪したところ、立派な石造の鳥居に建て替えられていて吃驚。
写真3:(参考)「安倍晴明生誕の地」(場所:茨城県筑西市猫島。「明野ゴルフクラブ」の東、約600m)。安倍晴明が架けたという「晴明橋」(どんな大水が出ても、水位が橋を越えることがなかったと伝える。)の一部を復元した「晴明橋公園」になっている。駐車場もある。