鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮(ちょうかいさんおおものいみじんじゃ わらびおかくちのみや)。
場所:山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51。国道345号線から山形県道373号線(杉沢南鳥海停車場線)に入り、道なりに約3km進み、右折。駐車場有り。
出羽国一宮・式内社(名神大)「鳥海山大物忌神社」は、現在は東方地方第2の高峰「鳥海山」(2,236m)山頂の「御本社」と「吹浦」・「蕨岡」の口之宮の3社一体となっているが、中世以降神仏混淆し、近世まで修験道の聖地だった。いくつかある登山口毎に勢力争いがあり、それに宗派対立等も絡んで複雑な関係であったらしい。そのなかで「蕨岡口之宮」は「鳥海山」南西麓に鎮座し、江戸時代には山頂の「薬師堂」(または「権現堂」、現在の「御本社」)の鍵を支配して、宗坊33坊という大勢力だったという(「吹浦」25坊、「矢島」18坊)。「蕨岡」宮の縁起での特色は役行者(役小角)の開基を説く点で、「鳥海山」には「手長・足長」という悪鬼が棲みついて村人を悩ましたため、白鳳年中(672~685年?)、「大物忌神」の意を受けた役行者が悪鬼を退治し、登山道を開いたとされる。
宗坊33坊の学頭寺であったのが「鳥海山 龍頭寺」で、現在は真言宗智山派に属し、本尊は薬師如来(「鳥海山大権現」の本地仏)。寺伝によれば、大同2年(807年)に慈照上人が開基したという。また、貞観2年(860年)に慈覚大師(円仁)が仙翁・龍翁という青鬼・赤鬼を退治し、「龍頭寺」を建立したとも伝える。慈覚大師は第3代天台座主なので、この辺り宗派の問題は複雑だが、近世に羽黒修験が江戸幕府に重んじられた天台宗に改宗した際も真言宗に留まった。明治時代に入って神仏分離令が出された後、他の宗坊は還俗したが「龍頭寺」のみは寺院として残った。
「蕨岡」宮は神道化に後れ、当初は「吹浦」宮のみが国幣中社に指定されるなどしたが、何とか巻き返し、「吹浦」宮とともに「口之宮」(里宮)となり、山頂の「御本社」と3社一体で「鳥海山大物忌神社」と称することとなった。
「やまがた庄内観光サイト」のHPから(鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮)
同上(鳥海山 龍頭寺)
玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社(蕨岡口之宮))
写真1:「鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮」境内入口。二の鳥居と随神門(元は仁王門)。社号標には「国幣中社 大物忌神社」、随神門の扁額には「出羽一之宮」とある。
写真2:高さ5m余の石造宝篋印塔(寛政12年(1800年)建立)
写真3:三の鳥居。随神門から入ると左に曲がって社殿に進む。
写真4:社殿
写真5:「峯中碑伝(ぶちゅうひで)」。山伏の峯入り修行の記念碑で、この碑には中央に大きく不動明王の種字(「カンマン」)が刻されている。文化2年(1805年)銘。境内入口から正面の石段を上ったところにあり、更にその上に旧拝殿があったという。
写真6:「龍頭寺」(住所:山形県飽海郡遊佐町蕨岡字松岡45。当神社に隣接)。龍頭寺の前身は「松岳山 観音寺」と称していたといい、その当時の本尊であったみられる十一面観音像があって、「庄内三十三観音霊場」の第19番札所にもなっている。
写真7:「蕨岡」から「吹浦」に向う途中に見えた「鳥海山」(詳しい場所は不明)
場所:山形県飽海郡遊佐町大字上蕨岡字松ヶ岡51。国道345号線から山形県道373号線(杉沢南鳥海停車場線)に入り、道なりに約3km進み、右折。駐車場有り。
出羽国一宮・式内社(名神大)「鳥海山大物忌神社」は、現在は東方地方第2の高峰「鳥海山」(2,236m)山頂の「御本社」と「吹浦」・「蕨岡」の口之宮の3社一体となっているが、中世以降神仏混淆し、近世まで修験道の聖地だった。いくつかある登山口毎に勢力争いがあり、それに宗派対立等も絡んで複雑な関係であったらしい。そのなかで「蕨岡口之宮」は「鳥海山」南西麓に鎮座し、江戸時代には山頂の「薬師堂」(または「権現堂」、現在の「御本社」)の鍵を支配して、宗坊33坊という大勢力だったという(「吹浦」25坊、「矢島」18坊)。「蕨岡」宮の縁起での特色は役行者(役小角)の開基を説く点で、「鳥海山」には「手長・足長」という悪鬼が棲みついて村人を悩ましたため、白鳳年中(672~685年?)、「大物忌神」の意を受けた役行者が悪鬼を退治し、登山道を開いたとされる。
宗坊33坊の学頭寺であったのが「鳥海山 龍頭寺」で、現在は真言宗智山派に属し、本尊は薬師如来(「鳥海山大権現」の本地仏)。寺伝によれば、大同2年(807年)に慈照上人が開基したという。また、貞観2年(860年)に慈覚大師(円仁)が仙翁・龍翁という青鬼・赤鬼を退治し、「龍頭寺」を建立したとも伝える。慈覚大師は第3代天台座主なので、この辺り宗派の問題は複雑だが、近世に羽黒修験が江戸幕府に重んじられた天台宗に改宗した際も真言宗に留まった。明治時代に入って神仏分離令が出された後、他の宗坊は還俗したが「龍頭寺」のみは寺院として残った。
「蕨岡」宮は神道化に後れ、当初は「吹浦」宮のみが国幣中社に指定されるなどしたが、何とか巻き返し、「吹浦」宮とともに「口之宮」(里宮)となり、山頂の「御本社」と3社一体で「鳥海山大物忌神社」と称することとなった。
「やまがた庄内観光サイト」のHPから(鳥海山大物忌神社蕨岡口ノ宮)
同上(鳥海山 龍頭寺)
玄松子さんのHPから(鳥海山大物忌神社(蕨岡口之宮))
写真1:「鳥海山大物忌神社 蕨岡口之宮」境内入口。二の鳥居と随神門(元は仁王門)。社号標には「国幣中社 大物忌神社」、随神門の扁額には「出羽一之宮」とある。
写真2:高さ5m余の石造宝篋印塔(寛政12年(1800年)建立)
写真3:三の鳥居。随神門から入ると左に曲がって社殿に進む。
写真4:社殿
写真5:「峯中碑伝(ぶちゅうひで)」。山伏の峯入り修行の記念碑で、この碑には中央に大きく不動明王の種字(「カンマン」)が刻されている。文化2年(1805年)銘。境内入口から正面の石段を上ったところにあり、更にその上に旧拝殿があったという。
写真6:「龍頭寺」(住所:山形県飽海郡遊佐町蕨岡字松岡45。当神社に隣接)。龍頭寺の前身は「松岳山 観音寺」と称していたといい、その当時の本尊であったみられる十一面観音像があって、「庄内三十三観音霊場」の第19番札所にもなっている。
写真7:「蕨岡」から「吹浦」に向う途中に見えた「鳥海山」(詳しい場所は不明)