大物忌神社(おおものいみじんじゃ)。通称:木境大物忌神社(きざかいおおものいみじんじゃ)。
場所:秋田県由利本荘市矢島町城内字木境4。「木境」という小字は普通の地図には載っていない。秋田県道32号線(仁賀保矢島館合線)で「鳥海高原花立牧場まで行き、そこから秋田県道58号線(象潟矢島線)に入り、鳥海山方面に(西へ)約1.2km。県道に面しているが、木立に隠れていて、見逃しやすい。駐車場有り。
「木境大物忌神社」は、いくつかある「鳥海山」登山口の1つ、「矢島口」の本拠地となった神社。伝承によれば、嘉祥3年(850年)に美濃国土田から来た比良衛・多良衛という兄弟が鳥海山を開山し、貞観12年(870年)には修験道当山派を開創した醍醐寺の聖宝(後の理源大師。弘法大師空海の孫弟子)が鳥海修験を興したとされる。比良衛・多良衛は善童鬼・妙童鬼、あるいは赤鬼・青鬼と呼ばれるようになり(いずれも役行者の従者とされる前鬼・後鬼の別名である。)、当神社の向かい側付近にある「開山神社」に祀られている。なお、開山後、比良衛・多良衛は麓に下りて土田氏を名乗って土着し、現在も善童鬼の家系という土田家が「開山神社」を氏神として奉斎しているとのこと。
「木境大物忌神社」は、鳥海山の北麓、二合目に位置している。建長6年(1254年)に改めて出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請して、遥拝所として整備されたという。とはいえ、江戸時代には、本山堂には役行者像、新山堂には薬師如来像(鳥海山大権現の本地仏)が祀られ、女性の参拝も許していたため、別名「女人堂」とも言われていたらしい。矢島領一般の鎮守として矢島藩(生駒氏)の庇護が篤く、18坊があったという。元禄14年(1701年)、「鳥海山」山頂御堂(現・「鳥海山大物忌神社山頂御本社」)の建替えを期に、これを「矢島」で行うことで山上の支配権を掌握しようとしたが、従来から建替えを行ってきた「蕨岡」に敗北した。次いで、元禄16年(1703年)には「鳥海山」の峰境についても「蕨岡」との間で争いを起こしたが、これは単に宗派争いに留まらず、行政上の問題にもなったことから、最終的には宝永元年(1704年)に江戸幕府の裁定により、やはり敗北している。これには「日本三代実録」貞観13年(871年)条にある「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上巌石壁立人跡稀到」という文を「飽海郡山上に在り」と読むか、「飽海郡に在り、山上・・・」と読むかという問題もあったが、実際問題として、8千石の小藩である矢島藩(「矢島」側)と庄内平野を領して豊かな庄内藩(14万石)(「蕨岡」側)との争いともなり、その経済力の差で敗れたとも評されている。なお、この採決により由利郡側の山腹七合目から以南は飽海郡に属するとされ、これが現在に至るまで秋田・山形県境が「鳥海山」では北側に突き出した形になった原因にもなっている。
平成21年には、「鳥海山大物忌神社(山頂御本社・吹浦口之宮・蕨岡口之宮)」だけでなく、「木境大物忌神社」・「森子大物忌神社」(秋田県由利本荘市)・「金峰神社」(秋田県にかほ市)などを含めて、「鳥海山」として国指定史跡に指定された。
秋田県神社庁のHPから(大物忌神社)
写真1:「木境大物忌神社」境内入口? 鳥居はなく、石灯篭が2基立っている。
写真2:同上、県道脇の説明板
写真3:同上、社殿。萱葺のどっしりした建物。神社というよりは仏堂の趣。
写真4:今も残る「道者道」
写真5:「開山神社」
写真6:花立牧場公園付近から見える「鳥海山」
場所:秋田県由利本荘市矢島町城内字木境4。「木境」という小字は普通の地図には載っていない。秋田県道32号線(仁賀保矢島館合線)で「鳥海高原花立牧場まで行き、そこから秋田県道58号線(象潟矢島線)に入り、鳥海山方面に(西へ)約1.2km。県道に面しているが、木立に隠れていて、見逃しやすい。駐車場有り。
「木境大物忌神社」は、いくつかある「鳥海山」登山口の1つ、「矢島口」の本拠地となった神社。伝承によれば、嘉祥3年(850年)に美濃国土田から来た比良衛・多良衛という兄弟が鳥海山を開山し、貞観12年(870年)には修験道当山派を開創した醍醐寺の聖宝(後の理源大師。弘法大師空海の孫弟子)が鳥海修験を興したとされる。比良衛・多良衛は善童鬼・妙童鬼、あるいは赤鬼・青鬼と呼ばれるようになり(いずれも役行者の従者とされる前鬼・後鬼の別名である。)、当神社の向かい側付近にある「開山神社」に祀られている。なお、開山後、比良衛・多良衛は麓に下りて土田氏を名乗って土着し、現在も善童鬼の家系という土田家が「開山神社」を氏神として奉斎しているとのこと。
「木境大物忌神社」は、鳥海山の北麓、二合目に位置している。建長6年(1254年)に改めて出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」の分霊を勧請して、遥拝所として整備されたという。とはいえ、江戸時代には、本山堂には役行者像、新山堂には薬師如来像(鳥海山大権現の本地仏)が祀られ、女性の参拝も許していたため、別名「女人堂」とも言われていたらしい。矢島領一般の鎮守として矢島藩(生駒氏)の庇護が篤く、18坊があったという。元禄14年(1701年)、「鳥海山」山頂御堂(現・「鳥海山大物忌神社山頂御本社」)の建替えを期に、これを「矢島」で行うことで山上の支配権を掌握しようとしたが、従来から建替えを行ってきた「蕨岡」に敗北した。次いで、元禄16年(1703年)には「鳥海山」の峰境についても「蕨岡」との間で争いを起こしたが、これは単に宗派争いに留まらず、行政上の問題にもなったことから、最終的には宝永元年(1704年)に江戸幕府の裁定により、やはり敗北している。これには「日本三代実録」貞観13年(871年)条にある「従三位勲五等大物忌神社在飽海郡山上巌石壁立人跡稀到」という文を「飽海郡山上に在り」と読むか、「飽海郡に在り、山上・・・」と読むかという問題もあったが、実際問題として、8千石の小藩である矢島藩(「矢島」側)と庄内平野を領して豊かな庄内藩(14万石)(「蕨岡」側)との争いともなり、その経済力の差で敗れたとも評されている。なお、この採決により由利郡側の山腹七合目から以南は飽海郡に属するとされ、これが現在に至るまで秋田・山形県境が「鳥海山」では北側に突き出した形になった原因にもなっている。
平成21年には、「鳥海山大物忌神社(山頂御本社・吹浦口之宮・蕨岡口之宮)」だけでなく、「木境大物忌神社」・「森子大物忌神社」(秋田県由利本荘市)・「金峰神社」(秋田県にかほ市)などを含めて、「鳥海山」として国指定史跡に指定された。
秋田県神社庁のHPから(大物忌神社)
写真1:「木境大物忌神社」境内入口? 鳥居はなく、石灯篭が2基立っている。
写真2:同上、県道脇の説明板
写真3:同上、社殿。萱葺のどっしりした建物。神社というよりは仏堂の趣。
写真4:今も残る「道者道」
写真5:「開山神社」
写真6:花立牧場公園付近から見える「鳥海山」