副川神社(そえがわじんじゃ)。
場所:秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町字小坂45。国道7号線「真坂」交差点から秋田県道220号線(真坂五城目線)「五城目」方面へ入る(東へ)。途中、介護老人保健施設「栄寿苑」付近で県道は右にカーヴしているが、分岐する狭い道路に直進。分岐から約700mでT字路に突き当たるので、右折(北へ)、道なりに約300m進むと「高岳山」登山口に到着。駐車場有り(古義真言宗智山派「盛医山 東国寺 常福院」の裏手)。神社は「高丘山」(標高221m)山頂に鎮座しており、登山口から徒歩で約30分登る。
出羽国式内社「副川神社」は、「延喜式神名帳」に登載されている以外、古代・中世の史料に見えない。一説に、「日本三代実録」貞観13年(871年)条に「出羽国利神に従五位下を授ける」という記事があり、この「利神」が「副川神社」であるとするが、根拠に乏しい。「延喜式神名帳」では鎮座地を「山本郡」としているが、これは近世の「山本郡」(旧・檜山郡)と異なり、古代では近世の「仙北郡」に当たる地域である。「副川神社」は中世には祭祀が廃絶していたと考えられ、秋田に入封した久保田(秋田)藩・佐竹氏により、現在地に再興された。再興に当たり、「副川神社」の本来の鎮座地が現・秋田県大仙市神宮寺にあったことを認識していながら、久保田城の北方の鎮護社とするべく、敢えて当地に移転させたとされる。元の桧山郡を山本郡に改名した理由も、「延喜式神名帳」の記載に合わせることにあったとする説もある。なお、この遷座により、現在、当神社が日本最北の式内社となっている。
因みに、古代、律令政府の支配地域は、現・秋田県八郎潟町の「三倉鼻」、「高岳山」、五城目町の「森山」を結んだ線が北限だったという説が有力。当神社が現在地に再興されたのは偶然だろうか。「高岳山」は、中世には修験道の聖地となっており、「広峰神社」として牛頭天王が祀られていたという。現在の祭神は、天照大御神・豊受大神・素盞嗚大神となっている。
秋田県神社庁のHPから(副川神社)
玄松子さんのHPから(副川神社)
写真1:「延喜式内 副川神社参道」の石碑
写真2:登山道から直ぐの石鳥居
写真3:「副川神社」里宮
写真4:里宮の前を通り過ぎて更に登っていく。
写真5:「高岳山」中腹の石鳥居と常夜灯。この鳥居は「中の鳥居」と称され、この付近から八郎潟方面の眺めが良い。この常夜灯は沖を通る船の良い目印になっていたようだ。
写真6:社殿。その前の鳥居は塩化ビニール製だそうで、かなり珍しい。
写真7:山頂にある標高、位置を示す石碑
場所:秋田県南秋田郡八郎潟町浦大町字小坂45。国道7号線「真坂」交差点から秋田県道220号線(真坂五城目線)「五城目」方面へ入る(東へ)。途中、介護老人保健施設「栄寿苑」付近で県道は右にカーヴしているが、分岐する狭い道路に直進。分岐から約700mでT字路に突き当たるので、右折(北へ)、道なりに約300m進むと「高岳山」登山口に到着。駐車場有り(古義真言宗智山派「盛医山 東国寺 常福院」の裏手)。神社は「高丘山」(標高221m)山頂に鎮座しており、登山口から徒歩で約30分登る。
出羽国式内社「副川神社」は、「延喜式神名帳」に登載されている以外、古代・中世の史料に見えない。一説に、「日本三代実録」貞観13年(871年)条に「出羽国利神に従五位下を授ける」という記事があり、この「利神」が「副川神社」であるとするが、根拠に乏しい。「延喜式神名帳」では鎮座地を「山本郡」としているが、これは近世の「山本郡」(旧・檜山郡)と異なり、古代では近世の「仙北郡」に当たる地域である。「副川神社」は中世には祭祀が廃絶していたと考えられ、秋田に入封した久保田(秋田)藩・佐竹氏により、現在地に再興された。再興に当たり、「副川神社」の本来の鎮座地が現・秋田県大仙市神宮寺にあったことを認識していながら、久保田城の北方の鎮護社とするべく、敢えて当地に移転させたとされる。元の桧山郡を山本郡に改名した理由も、「延喜式神名帳」の記載に合わせることにあったとする説もある。なお、この遷座により、現在、当神社が日本最北の式内社となっている。
因みに、古代、律令政府の支配地域は、現・秋田県八郎潟町の「三倉鼻」、「高岳山」、五城目町の「森山」を結んだ線が北限だったという説が有力。当神社が現在地に再興されたのは偶然だろうか。「高岳山」は、中世には修験道の聖地となっており、「広峰神社」として牛頭天王が祀られていたという。現在の祭神は、天照大御神・豊受大神・素盞嗚大神となっている。
秋田県神社庁のHPから(副川神社)
玄松子さんのHPから(副川神社)
写真1:「延喜式内 副川神社参道」の石碑
写真2:登山道から直ぐの石鳥居
写真3:「副川神社」里宮
写真4:里宮の前を通り過ぎて更に登っていく。
写真5:「高岳山」中腹の石鳥居と常夜灯。この鳥居は「中の鳥居」と称され、この付近から八郎潟方面の眺めが良い。この常夜灯は沖を通る船の良い目印になっていたようだ。
写真6:社殿。その前の鳥居は塩化ビニール製だそうで、かなり珍しい。
写真7:山頂にある標高、位置を示す石碑