秋田城跡(あきたじょうあと)。「秋田城」は「あきたのき」ともいう。
場所:秋田県秋田市寺内大畑4-1(「秋田城跡出土品収蔵庫」の住所)。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)、約850m進んで「秋田城跡→」の案内板がでているところを右折(北東へ)、約300m。駐車場有り。
律令政府は、和銅元年(708年)、越後国を北に伸ばし出羽郡を創設し、それと前後して「出羽柵」という軍事拠点を設置した。和銅5年(712年)には出羽郡を出羽国に昇格させ、その翌年、陸奥国から置賜郡と最上郡を移管した。その当時の国府は「出羽柵」の所在地に置かれたとみられ、現・山形県の庄内地方とされることに異論は無いが、詳しい場所は不明である。天平5年(733年)、「出羽柵」は「秋田村高清水岡」(現・秋田県秋田市寺内)へ移設され(「続日本紀」)、天平宝字4年(760年)頃には「秋田城」と改称されたとされる(「丸部足人解」という古文書に「阿支太城」とある。)。「柵」と「城」の差は明確ではないが、最近では、軍事機能とともに、官衙=行政機能を有することが強調されるようになってきている。ただし、「出羽柵」が秋田に移されたとき、出羽国府も移転したのか、出羽郡(現・山形県庄内地方)に留まったのかについては議論が分かれている(いわゆる「出羽国府論」)。その詳細について記すと相当な分量になるので省くが、史料や「秋田城跡」の出土品などを素直にみれば、いったん国府も秋田に移転したとするのがよいように思われる。移転しなかったとする説は、当時未だ安定していなかった辺境の地である秋田に国府を移転したなど考え難いとすることを背景に、史料等について「移転した」との確実な証拠ではない、と指摘するもののようである。とにかく、現・山形県庄内地方からは、奈良時代の出羽国府とされる遺跡が発見されていないことが最も弱い点だろう。ここでは、通説的見解に従い「秋田城」の盛衰について記すと概ね次のとおりである。
「出羽柵」が秋田に移転し、「出羽柵」が「秋田城」に改められると、出羽国府も秋田に移転した。ただし、それまでの国府(出羽郡)から一気に100kmも北進し、周辺の蝦夷を十分に服従させていない状況であったことから、早くも宝亀6年(775年)には国府移転が検討される状況となった。宝亀11年(780年)には、国府を「河辺」に移転させることを前提に、「秋田城」を停廃することが議論された(「続日本紀」)。延暦23年(804年)には、ついに国府の「河辺」移転と「秋田城」の停止・(秋田)郡への移行が行われた(「日本後紀」)。そして、「日本三代実録」仁和3年(887年)の記事には、出羽国府は「出羽郡井口」にあり、延暦年中(782~806年)に国府移転があったことが記されている(この「井口」の国府が現・山形県酒田市の「城輪柵」であるということにほぼ異論はない。)。こうして「秋田城」は停止されたものの、その後も鎮秋田城国司として介(次官)が置かれ、天長7年(830年)の「天長の大地震」、元慶3年(878年)の「元慶の乱」などの被害報告の記事が史料にある。発掘調査でも、このような被害と復興の変遷が発見されており、8世紀第2四半期から始まり、10世紀後半まで、政庁は建替えられながら存在したと考えられている。ところが、史料の中では、中世に至るまで、官職名として「出羽城介」、施設名として「秋田城」が存続したとみられる記事がある(例:「吾妻鏡」文治6年(1190年)など)。鎌倉時代にも「秋田城介」の任官記事があり、これは「秋田城介」が、武家社会の中で1つの名誉職とされたことによるものといわれている。このように、10世紀後半以降の「秋田城」がどのようになっていたのか、というのも謎の1つであるとされる。
秋田市のHPから(秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所)
写真1:「史跡 秋田城祉」の石碑
写真2:「秋田城」の政庁ミニチュア
写真3:建物跡
写真4:外郭東門(復元)
写真5:同上、築地塀は古代の工法で復元されたものという。
場所:秋田県秋田市寺内大畑4-1(「秋田城跡出土品収蔵庫」の住所)。国道7号線(臨海バイパス)「港大橋前」交差点から北東に進み、突き当りを左折(北西へ)、約850m進んで「秋田城跡→」の案内板がでているところを右折(北東へ)、約300m。駐車場有り。
律令政府は、和銅元年(708年)、越後国を北に伸ばし出羽郡を創設し、それと前後して「出羽柵」という軍事拠点を設置した。和銅5年(712年)には出羽郡を出羽国に昇格させ、その翌年、陸奥国から置賜郡と最上郡を移管した。その当時の国府は「出羽柵」の所在地に置かれたとみられ、現・山形県の庄内地方とされることに異論は無いが、詳しい場所は不明である。天平5年(733年)、「出羽柵」は「秋田村高清水岡」(現・秋田県秋田市寺内)へ移設され(「続日本紀」)、天平宝字4年(760年)頃には「秋田城」と改称されたとされる(「丸部足人解」という古文書に「阿支太城」とある。)。「柵」と「城」の差は明確ではないが、最近では、軍事機能とともに、官衙=行政機能を有することが強調されるようになってきている。ただし、「出羽柵」が秋田に移されたとき、出羽国府も移転したのか、出羽郡(現・山形県庄内地方)に留まったのかについては議論が分かれている(いわゆる「出羽国府論」)。その詳細について記すと相当な分量になるので省くが、史料や「秋田城跡」の出土品などを素直にみれば、いったん国府も秋田に移転したとするのがよいように思われる。移転しなかったとする説は、当時未だ安定していなかった辺境の地である秋田に国府を移転したなど考え難いとすることを背景に、史料等について「移転した」との確実な証拠ではない、と指摘するもののようである。とにかく、現・山形県庄内地方からは、奈良時代の出羽国府とされる遺跡が発見されていないことが最も弱い点だろう。ここでは、通説的見解に従い「秋田城」の盛衰について記すと概ね次のとおりである。
「出羽柵」が秋田に移転し、「出羽柵」が「秋田城」に改められると、出羽国府も秋田に移転した。ただし、それまでの国府(出羽郡)から一気に100kmも北進し、周辺の蝦夷を十分に服従させていない状況であったことから、早くも宝亀6年(775年)には国府移転が検討される状況となった。宝亀11年(780年)には、国府を「河辺」に移転させることを前提に、「秋田城」を停廃することが議論された(「続日本紀」)。延暦23年(804年)には、ついに国府の「河辺」移転と「秋田城」の停止・(秋田)郡への移行が行われた(「日本後紀」)。そして、「日本三代実録」仁和3年(887年)の記事には、出羽国府は「出羽郡井口」にあり、延暦年中(782~806年)に国府移転があったことが記されている(この「井口」の国府が現・山形県酒田市の「城輪柵」であるということにほぼ異論はない。)。こうして「秋田城」は停止されたものの、その後も鎮秋田城国司として介(次官)が置かれ、天長7年(830年)の「天長の大地震」、元慶3年(878年)の「元慶の乱」などの被害報告の記事が史料にある。発掘調査でも、このような被害と復興の変遷が発見されており、8世紀第2四半期から始まり、10世紀後半まで、政庁は建替えられながら存在したと考えられている。ところが、史料の中では、中世に至るまで、官職名として「出羽城介」、施設名として「秋田城」が存続したとみられる記事がある(例:「吾妻鏡」文治6年(1190年)など)。鎌倉時代にも「秋田城介」の任官記事があり、これは「秋田城介」が、武家社会の中で1つの名誉職とされたことによるものといわれている。このように、10世紀後半以降の「秋田城」がどのようになっていたのか、というのも謎の1つであるとされる。
秋田市のHPから(秋田市教育委員会 秋田城跡調査事務所)
写真1:「史跡 秋田城祉」の石碑
写真2:「秋田城」の政庁ミニチュア
写真3:建物跡
写真4:外郭東門(復元)
写真5:同上、築地塀は古代の工法で復元されたものという。