八森遺跡(はちもりいせき)。
場所:山形県酒田市市条字八森921(「八森自然公園」の住所)。国道344号線「酒田市観音寺」交差点から東に約1km進み、「八幡保育園」付近から南に進んで荒瀬川を渡り、道なりに八森山の山上を目指す。八森山の北端にある八森野球場の東側。公園の駐車場を利用。
「八森遺跡」は、荒瀬川左岸(南岸)の高台(標高約60m、比高約40m)にある旧石器時代、縄文時代、平安時代の複合遺跡だが、主体は平安時代の遺跡で、「八森自然公園」造成に伴い、昭和52年から発掘調査が行われた。その結果、1辺約90mの方形に板塀で囲まれた中に、6棟の礎石あるいは掘立柱による建物跡が発見された。これら建物は、ほぼ同一方位に建てられ、南中央の広場周辺にコの字形の配置になっていた。また、板塀の、南・東・西辺の中央に門が開いていた。こうした建物配置は古代官衙、特に政庁の建築様式である。なお、現・野球場付近からは倉庫跡等も発見されている。土器、瓦、硯などの出土品の様式観から、9世紀後半~10世紀前半頃のものと推定されている。こうしたことから、当遺跡は、約3km西にある「城輪柵跡」(2015年12月26日記事)が平安時代の出羽国府であったことを前提に、「日本三代実録」仁和3年(887年)記事にある国府移転先と推定されている。国府移転先といっても、「城輪柵跡」の出羽国府は平安時代末まで存続したとみられるため、当遺跡が国府として使われたのは短い期間だったようだ。
因みに、上記「日本三代実録」仁和3年の記事は次のようなものである。即ち、出羽国守・坂上茂樹から「嘉祥3年(850年)の大地震により、地形が変わり、窪地に泥が溜まっている。更に、海水が国府から6里(約3km)まで迫り、大河(最上川?)も崩壊して国府を廻る堤防も1町(約109m)余のところで被害を受け、浸水の危機にある。よって、堅固な地である最上郡大山郷保宝士野(ほぼしの?)に国府を移転して危機を避けたい。」という申請があった。これに対して、朝廷では、小野春風や藤原保則など現地の地勢に詳しい者たちの意見も聞いたところ、「国司の申請には一定の道理がある。」ということだった。しかし、審議の結果、「水難を避けるための国府移転は妥当ではあるが、最上郡は出羽国の南辺にあって、山に囲まれており、水上交通路はあるが、冬には不便である。まして、秋田城・雄勝城から遠く離れ、緊急連絡もできない。国司の業務遂行にも差し支える。したがって、国府の南遷は認めず、現・国府の近くの高台の場所を選んで移転せよ。」というものだった(注:個人的な現代語訳なので誤訳があっても宥恕願います。)。「保宝士野」には結局、移転しなかったこともあり、具体的な場所は不明だが、現・山形市、または、西村山郡河北町付近という説が有力とされているが、ここで重要なのは、災害により居住環境が厳しいような状態となっても、政治的・行政的な立地条件を優先させたということで、これ以上、国府を南に下げることを許さなかったということになる。ただ、何故、嘉祥3年の大地震から37年も経ってからの申請になったのか、いったん高台(「八森遺跡」)に移したのに短期間しか使われずに元の国府(「城輪柵跡」)に戻ったのか等、疑問は残る。なお、嘉祥3年の大地震については、「日本文徳天皇實録」に記事があるが、「出羽国から報告があり、大地震が起きて地割れが発生、山や谷が動き、圧死者が多数出た。」というもので、記事の分量自体が少なく、建物等の被害の描写も無く、詳細不明であった。
写真1:「八森遺跡」。案内板はあるが、遺跡は発掘調査後に埋め戻されており、単なる空き地のように見える。
写真2:同上。東南側から。
写真3:同上。南西側から。
写真4:北西側にある小道の入口。ここから下っていくと、「(一条)八幡神社」(次項記事)の裏に出る。
場所:山形県酒田市市条字八森921(「八森自然公園」の住所)。国道344号線「酒田市観音寺」交差点から東に約1km進み、「八幡保育園」付近から南に進んで荒瀬川を渡り、道なりに八森山の山上を目指す。八森山の北端にある八森野球場の東側。公園の駐車場を利用。
「八森遺跡」は、荒瀬川左岸(南岸)の高台(標高約60m、比高約40m)にある旧石器時代、縄文時代、平安時代の複合遺跡だが、主体は平安時代の遺跡で、「八森自然公園」造成に伴い、昭和52年から発掘調査が行われた。その結果、1辺約90mの方形に板塀で囲まれた中に、6棟の礎石あるいは掘立柱による建物跡が発見された。これら建物は、ほぼ同一方位に建てられ、南中央の広場周辺にコの字形の配置になっていた。また、板塀の、南・東・西辺の中央に門が開いていた。こうした建物配置は古代官衙、特に政庁の建築様式である。なお、現・野球場付近からは倉庫跡等も発見されている。土器、瓦、硯などの出土品の様式観から、9世紀後半~10世紀前半頃のものと推定されている。こうしたことから、当遺跡は、約3km西にある「城輪柵跡」(2015年12月26日記事)が平安時代の出羽国府であったことを前提に、「日本三代実録」仁和3年(887年)記事にある国府移転先と推定されている。国府移転先といっても、「城輪柵跡」の出羽国府は平安時代末まで存続したとみられるため、当遺跡が国府として使われたのは短い期間だったようだ。
因みに、上記「日本三代実録」仁和3年の記事は次のようなものである。即ち、出羽国守・坂上茂樹から「嘉祥3年(850年)の大地震により、地形が変わり、窪地に泥が溜まっている。更に、海水が国府から6里(約3km)まで迫り、大河(最上川?)も崩壊して国府を廻る堤防も1町(約109m)余のところで被害を受け、浸水の危機にある。よって、堅固な地である最上郡大山郷保宝士野(ほぼしの?)に国府を移転して危機を避けたい。」という申請があった。これに対して、朝廷では、小野春風や藤原保則など現地の地勢に詳しい者たちの意見も聞いたところ、「国司の申請には一定の道理がある。」ということだった。しかし、審議の結果、「水難を避けるための国府移転は妥当ではあるが、最上郡は出羽国の南辺にあって、山に囲まれており、水上交通路はあるが、冬には不便である。まして、秋田城・雄勝城から遠く離れ、緊急連絡もできない。国司の業務遂行にも差し支える。したがって、国府の南遷は認めず、現・国府の近くの高台の場所を選んで移転せよ。」というものだった(注:個人的な現代語訳なので誤訳があっても宥恕願います。)。「保宝士野」には結局、移転しなかったこともあり、具体的な場所は不明だが、現・山形市、または、西村山郡河北町付近という説が有力とされているが、ここで重要なのは、災害により居住環境が厳しいような状態となっても、政治的・行政的な立地条件を優先させたということで、これ以上、国府を南に下げることを許さなかったということになる。ただ、何故、嘉祥3年の大地震から37年も経ってからの申請になったのか、いったん高台(「八森遺跡」)に移したのに短期間しか使われずに元の国府(「城輪柵跡」)に戻ったのか等、疑問は残る。なお、嘉祥3年の大地震については、「日本文徳天皇實録」に記事があるが、「出羽国から報告があり、大地震が起きて地割れが発生、山や谷が動き、圧死者が多数出た。」というもので、記事の分量自体が少なく、建物等の被害の描写も無く、詳細不明であった。
写真1:「八森遺跡」。案内板はあるが、遺跡は発掘調査後に埋め戻されており、単なる空き地のように見える。
写真2:同上。東南側から。
写真3:同上。南西側から。
写真4:北西側にある小道の入口。ここから下っていくと、「(一条)八幡神社」(次項記事)の裏に出る。