八幡神社(はちまんじんじゃ)。旧称:一条八幡宮、通称:一条八幡神社。
場所:山形県酒田市市条字水上14-1-1。国道344号線「酒田市観音寺」交差点の南、約700m。駐車場有り。
社伝によれば、元慶元年(877年)、大和朝廷の命により出羽国国司・藤原朝臣興世が山城国「石清水八幡宮」(現・京都府八幡市)の御紳霊を勧請したのが創祀で、翌年の元慶2年(878年)に出羽国で夷俘の大反乱(「元慶の乱」)が起きると、鎮守府将軍・小野朝臣春風が当神社で反乱鎮定を祈願したという。あるいは、「元慶の乱」平定のために出羽郡司・小野良實が「石清水八幡宮」の御神霊を勧請したともいう。祭神は、譽田別尊。
因みに「石清水八幡宮」は、貞観元年(859年)に豊前国一宮「宇佐神宮」(現・大分県宇佐市)から国家鎮護のため京都の南西(裏鬼門)に当たる「男山」山上に勧請されたものといわれている。京都への「石清水八幡宮」の勧請時期と、当神社の勧請時期が近いのが気になるが、逆に、京都での流行(最先端)を辺境にも持ち込んだものかもしれない。
当神社は荒瀬川の左岸にあり、かつては、その水を引き込んで堀を廻らしてあったとされ、更にそれを神領の田畑の感慨にも利用したという。当神社の通称、あるいは鎮座地の地名である「一条」・「市条」というのは、条里制に因むもので、当神社が条里の基準になっていたと伝わるようである。また、平安時代の「出羽国府」跡とされる「城輪柵(跡)」と近く(直線距離で約2.5km)、いわゆる「国府八幡宮」であったと思われ、一説には「出羽国」の「総社」であったともいう。戦国時代には最上氏、江戸時代には庄内藩主・酒井家や酒田の豪商・本間家などから篤く庇護され、明治9年には県社に列せられた。
玄松子さんのHPから(八幡神社(酒田市市条))
写真1:「八幡神社」一の鳥居。扁額は「八幡宮」
写真2:同上、二の鳥居と社号標
写真3:社殿
写真4:社殿の裏は「八森山」の北西端の下に当たる。そこに緩やかな坂道があり、上って行くと「八森遺跡」(前項)のところに出る。
場所:山形県酒田市市条字水上14-1-1。国道344号線「酒田市観音寺」交差点の南、約700m。駐車場有り。
社伝によれば、元慶元年(877年)、大和朝廷の命により出羽国国司・藤原朝臣興世が山城国「石清水八幡宮」(現・京都府八幡市)の御紳霊を勧請したのが創祀で、翌年の元慶2年(878年)に出羽国で夷俘の大反乱(「元慶の乱」)が起きると、鎮守府将軍・小野朝臣春風が当神社で反乱鎮定を祈願したという。あるいは、「元慶の乱」平定のために出羽郡司・小野良實が「石清水八幡宮」の御神霊を勧請したともいう。祭神は、譽田別尊。
因みに「石清水八幡宮」は、貞観元年(859年)に豊前国一宮「宇佐神宮」(現・大分県宇佐市)から国家鎮護のため京都の南西(裏鬼門)に当たる「男山」山上に勧請されたものといわれている。京都への「石清水八幡宮」の勧請時期と、当神社の勧請時期が近いのが気になるが、逆に、京都での流行(最先端)を辺境にも持ち込んだものかもしれない。
当神社は荒瀬川の左岸にあり、かつては、その水を引き込んで堀を廻らしてあったとされ、更にそれを神領の田畑の感慨にも利用したという。当神社の通称、あるいは鎮座地の地名である「一条」・「市条」というのは、条里制に因むもので、当神社が条里の基準になっていたと伝わるようである。また、平安時代の「出羽国府」跡とされる「城輪柵(跡)」と近く(直線距離で約2.5km)、いわゆる「国府八幡宮」であったと思われ、一説には「出羽国」の「総社」であったともいう。戦国時代には最上氏、江戸時代には庄内藩主・酒井家や酒田の豪商・本間家などから篤く庇護され、明治9年には県社に列せられた。
玄松子さんのHPから(八幡神社(酒田市市条))
写真1:「八幡神社」一の鳥居。扁額は「八幡宮」
写真2:同上、二の鳥居と社号標
写真3:社殿
写真4:社殿の裏は「八森山」の北西端の下に当たる。そこに緩やかな坂道があり、上って行くと「八森遺跡」(前項)のところに出る。