姫塚(ひめつか)。
場所:秋田県仙北市田沢湖生保内字堂ノ前。現・国道341号線と旧・国道341号線が交わるところにあるコンビニ「ローソン田沢湖造堂店」から旧・国道341号線を南に約500m。駐車場とトイレがある。
「姫塚」は、平将門の娘である瀧夜叉姫の墓とされる塚で、今も当地に多い田口姓は姫の子孫であり、姫は「村祖」とされている。「姫塚」から南に約1.4kmのところにある「中生保内神社」は、社伝によれば、御神体は瀧夜叉姫の守護神として懐中していたという延命地蔵像で、姫の長子・田口九郎右衛門(田口九兵衛とも)が氏神として祀ったという。元々は田口家の屋敷内(字堂ノ前)にあったが、東側の地蔵長根というところに移したところ、通行人が度々落馬することがあり、元の社地に戻したという。明治期に入り火産巣毘神(ホムスビ)を祭神として「愛宕神社」に改称、明治44年に「山神社」(大山祇神社)と合社して昭和3年に現在名に改称したとされる。民話では、昔、苗代掻きで人手不足に困っていると、ホエドワラシ(乞食童子)がサセトリ(馬の鼻をとって引き回すこと)をしてくれた。いつの間にか居なくなったので捜すと、地蔵堂に泥の足跡がついていて、地蔵像の足が泥で汚れていた。お地蔵様が童子となって手伝ってくれたことがわかった。以来、この付近の田を地蔵田といっている。また、地蔵の足に蛭が吸いついて血を吸ったが、罰として血を吸ってはならないことにされ、地蔵田の蛭は血を吸わないという話である。実は、類似の民話は各地に各地にあり、一般に「田掻き地蔵」といわれている。
ところで、平将門の娘は3人いたとされており、長女が五月姫、次女が春姫、三女が如蔵尼(俗名不明)となっている。このうち、長女の五月姫が、将門の死後、京都の「貴船神社」で妖術を授けられて瀧夜叉姫と名乗り、朝廷転覆の反乱を起こしたとされる。瀧夜叉姫は、京都「大宅神社」神主・大宅太郎光圀の陰陽術によって成敗された、というが、これは後世に作られた物語に過ぎないらしい。一方、瀧夜叉姫とは、三女の如蔵尼であるとする説もある。如蔵尼(瀧夜叉姫)は、将門の死後、東北地方に逃れて仏門に入り、地蔵菩薩を信仰して如蔵尼と名乗ったという。その隠棲した寺が陸奥国「慧日寺」(現・福島県会津磐梯町「恵日寺」)で、境内に墓碑があるとのこと。如蔵尼は、「國王神社」(現・茨城県坂東市、2012年10月6日記事参照)を創建した人物とも伝えられており、「瀧夜叉姫」(「夜叉」は元々インド神話の鬼神)という名とはイメージが異なる。
こうしたことから、東北地方では、将門の三女の名が元々「瀧夜叉姫」であったのであり、将門の死後、地蔵菩薩を篤く信仰して、その功徳を説くあまり、妖術を使って民を惑わすとして、朝廷から睨まれていた。それで、ついには現・秋田県仙北市田沢湖まで落ち延びてきた、との伝承が生まれたようだ。上記の「田掻き地蔵」の伝説があるように、この伝承・伝説には地蔵菩薩を信仰し、布教活動をしていた旅僧(団)の存在があったのではなかろうか。
蛇足ながら、将門の次女・春姫であるが、平良文の子・平忠頼の正室となり、平忠常らを生んだ。平忠常は後の千葉氏の祖であり、関東地方で多くの同族があって栄えたとされる(平良文については、「千葉神社」(2012年5月5日記事)、「夕顔観音塚」(2014年5月10日記事)等参照)。
「まるまる秋田」のHPから(姫塚)
秋田県神社庁のHPから(中生保内神社)
写真1:「姫塚」の石碑。江戸時代に建てられたものらしい。「姫者平将門三女也」と刻まれている。
写真2:「姫塚」
写真3:「中生保内神社(なかおぼないじんじゃ)」(場所:仙北市田沢湖生保内字中生保内1。「姫塚」から南に約1.4km、駐車場なし)
写真4:同上、社殿
場所:秋田県仙北市田沢湖生保内字堂ノ前。現・国道341号線と旧・国道341号線が交わるところにあるコンビニ「ローソン田沢湖造堂店」から旧・国道341号線を南に約500m。駐車場とトイレがある。
「姫塚」は、平将門の娘である瀧夜叉姫の墓とされる塚で、今も当地に多い田口姓は姫の子孫であり、姫は「村祖」とされている。「姫塚」から南に約1.4kmのところにある「中生保内神社」は、社伝によれば、御神体は瀧夜叉姫の守護神として懐中していたという延命地蔵像で、姫の長子・田口九郎右衛門(田口九兵衛とも)が氏神として祀ったという。元々は田口家の屋敷内(字堂ノ前)にあったが、東側の地蔵長根というところに移したところ、通行人が度々落馬することがあり、元の社地に戻したという。明治期に入り火産巣毘神(ホムスビ)を祭神として「愛宕神社」に改称、明治44年に「山神社」(大山祇神社)と合社して昭和3年に現在名に改称したとされる。民話では、昔、苗代掻きで人手不足に困っていると、ホエドワラシ(乞食童子)がサセトリ(馬の鼻をとって引き回すこと)をしてくれた。いつの間にか居なくなったので捜すと、地蔵堂に泥の足跡がついていて、地蔵像の足が泥で汚れていた。お地蔵様が童子となって手伝ってくれたことがわかった。以来、この付近の田を地蔵田といっている。また、地蔵の足に蛭が吸いついて血を吸ったが、罰として血を吸ってはならないことにされ、地蔵田の蛭は血を吸わないという話である。実は、類似の民話は各地に各地にあり、一般に「田掻き地蔵」といわれている。
ところで、平将門の娘は3人いたとされており、長女が五月姫、次女が春姫、三女が如蔵尼(俗名不明)となっている。このうち、長女の五月姫が、将門の死後、京都の「貴船神社」で妖術を授けられて瀧夜叉姫と名乗り、朝廷転覆の反乱を起こしたとされる。瀧夜叉姫は、京都「大宅神社」神主・大宅太郎光圀の陰陽術によって成敗された、というが、これは後世に作られた物語に過ぎないらしい。一方、瀧夜叉姫とは、三女の如蔵尼であるとする説もある。如蔵尼(瀧夜叉姫)は、将門の死後、東北地方に逃れて仏門に入り、地蔵菩薩を信仰して如蔵尼と名乗ったという。その隠棲した寺が陸奥国「慧日寺」(現・福島県会津磐梯町「恵日寺」)で、境内に墓碑があるとのこと。如蔵尼は、「國王神社」(現・茨城県坂東市、2012年10月6日記事参照)を創建した人物とも伝えられており、「瀧夜叉姫」(「夜叉」は元々インド神話の鬼神)という名とはイメージが異なる。
こうしたことから、東北地方では、将門の三女の名が元々「瀧夜叉姫」であったのであり、将門の死後、地蔵菩薩を篤く信仰して、その功徳を説くあまり、妖術を使って民を惑わすとして、朝廷から睨まれていた。それで、ついには現・秋田県仙北市田沢湖まで落ち延びてきた、との伝承が生まれたようだ。上記の「田掻き地蔵」の伝説があるように、この伝承・伝説には地蔵菩薩を信仰し、布教活動をしていた旅僧(団)の存在があったのではなかろうか。
蛇足ながら、将門の次女・春姫であるが、平良文の子・平忠頼の正室となり、平忠常らを生んだ。平忠常は後の千葉氏の祖であり、関東地方で多くの同族があって栄えたとされる(平良文については、「千葉神社」(2012年5月5日記事)、「夕顔観音塚」(2014年5月10日記事)等参照)。
「まるまる秋田」のHPから(姫塚)
秋田県神社庁のHPから(中生保内神社)
写真1:「姫塚」の石碑。江戸時代に建てられたものらしい。「姫者平将門三女也」と刻まれている。
写真2:「姫塚」
写真3:「中生保内神社(なかおぼないじんじゃ)」(場所:仙北市田沢湖生保内字中生保内1。「姫塚」から南に約1.4km、駐車場なし)
写真4:同上、社殿