神が宿るところ

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綴子神社

2016-12-03 23:21:57 | 神社
綴子神社(つづれこじんじゃ)。通称:綴子八幡宮。
場所:秋田県北秋田市綴子字西館47。国道7号線「綴子」交差点から北へ約400m。駐車場なし。
社伝によれば、斉明天皇5年(659年)、将軍・阿倍比羅夫が蝦夷征討のため当地に至り、戦勝祈願と北秋田地方の鎮護として豊前国一宮「宇佐神宮」(現・大分県)から八幡大神を勧請して、地主神と併せ祀ったのが創建とされる。当神社の主祭神は八幡山大神とされるが、これは応神天皇のことであるとされるので、一般の八幡大神と同じということになる。ただし、当神社では、この社伝から、東日本では珍しい「宇佐神宮」からの直接の分社であり、東北地方最古の八幡宮であるとしている。これらのことは、「日本書紀」の所謂「阿部比羅夫の北討」の記事を基にしていて、現在に残る地名の秋田や能代の初出であるとされる「齶田(飽田)」・「渟代」と同様、「肉入籠(ししりこ)」という地名が現在の「綴子」であるとする説によるものと思われる。ただし、「肉入籠」の場所の比定には諸説あり、他の地名の比定などからして、阿倍比羅夫は「渟代」から更に日本海を北上して現・北海道にまで行ったとされ、「肉入籠」も現・青森県~北海道のどこかではないか、とする説の方が有力のようである。もっとも、「渟代」は現・秋田県能代市よりも広い地域を指す(おそらく北秋田地方全体)とも考えられており、阿部比羅夫(軍団)が米代川を遡上しなかったとも言い切れないようである。
さて、当神社の社家・武内家は、弘長2年(1262年)以前、近江国(現・滋賀県)出身の「常覚院元瑞道亨(じょうかくいんげんずいどうきょう)」が「綴子八幡宮」を再興して、社家の初代となったとされる。境内の「内館文庫跡」は、武内家が慶安元年(1648年)に私塾として開設したものとされ、約1,500巻にも及ぶ蔵書を有するとされる。武内家の中でも「般若院玉峯英泉(はんにゃいんぎょくほうえいせん)」(正徳4年(1714年)生)という人物は特に英才であったようで、全国各地を行脚して修行して修験道を修め、役小角(役行者)が最も尊重した「仏母大孔雀明王経」を校訂するなどの業績がある。なお、「肉入籠」が「綴子」であると最初に言い出したのが、この英泉であるらしい。


綴子神社のHP

秋田県神社庁のHPから(綴子神社)


写真1:「綴子神社」境内入口


写真2:社殿


写真3:境内の「千年桂」。御神木で、創建当時のものとされる(実際は樹齢約300年という。)。樹高は約30m、目通り約8.5m。


写真4:「内館文庫跡」



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