神が宿るところ

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鎌足神社(茨城県鹿嶋市)

2017-11-18 23:22:27 | 神社
鎌足神社(かまたりじんじゃ)。
場所:茨城県鹿嶋市宮中3354。茨城県道238号線(須賀北埠頭線)と同242号線(鹿嶋鉾田線)の「大船津」交差点から、県道242号線を東に約260m進んだところで左折(北西へ)、約140m。駐車場なし。
中臣鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として「大化の改新」を推し進め、その功により臨終に際して「大織冠」の位とともに「藤原」の姓を賜り、日本の最大氏族「藤原氏」の祖となった人物である。よって、生前は中臣鎌足といったわけだが、その生誕地については説が分かれている。鎌足の曾孫である恵美押勝(藤原仲麻呂)によるとされる藤原氏の家伝書「藤氏家傳」(天平宝字4年(760年)成立)では、大和国高市郡藤原(現・奈良県橿原市)で、「藤原」の姓はこの地名によるとされる。また、鎌足を祭神とする「談山神社」(奈良県桜井市)の「多武峯縁起絵巻」(成立:江戸時代)などでは大和国高市郡大原(現・奈良県高市郡明日香村)とし、同地の「大原神社」に「大織冠誕生舊跡」の石碑が建てられている(高市郡の藤原=大原としている資料も多い。)。一方、常陸国鹿島郡下生(しものう)(現・茨城県鹿嶋市)とする説があって、これは歴史物語「大鏡」(成立:平安時代後期?)によっている。
「大鏡」は史書ではなく、歴史物語とされているので、そもそも信憑性に乏しいとされることも多いが、常陸国鹿島出生説の論拠は概ね次の通りである。まず、中臣氏というのは、神武天皇の皇子・神八井耳命の後裔と称する多氏に連なり、神事・祭祀を司った。「常陸国風土記」香島郡の条によれば、中臣氏の進言によって香島郡が神郡として建郡されたこと、現・「鹿島神宮」の周りに卜占を業とする人々が多く住んでいたこと等からして、中臣氏が香島郡の祭祀と郡司を掌握していたと考えられる。ところで、もともと多氏は九州を本拠とし(渡来人説も強い)、後に本流一族が畿内に移ったとされるが、常陸国の中臣氏は現・「鹿島神宮」の祭祀を行うため、中央から派遣された一族と考えられる。そして、(ここからは大胆な仮説のようだが)6世紀中頃からの所謂「崇仏争論」において、廃仏派の物部氏に従属していた中央の中臣氏は、崇仏派の勝利により衰退してしまう。このとき、常陸国鹿島にいた才能豊かな鎌足(幼名・鎌子)が中央の中臣氏の養子となった、とされる。なお、このストーリーで注意しなければならないのは、鎌足が必ずしも中臣氏出身でなくても成立しそうな点で、要するに、鎌足が名族である中央の中臣氏を乗っ取り、中央で勢力を伸ばした(来歴は都合よく書き換えた)かもしれない、ということである。
さて、出生地に関する論争は未だ決着がついていないようだが、現・鹿嶋市にも鎌足の生誕地とする場所があり、そこに鎌足を主祭神とする神社が鎮座している。それが「鎌足神社」で、境内はさほど広くないが、「大織冠藤原公古宅址碑」という石碑も建てられている(明治25年建立)。「鎌足神社境内地」として鹿嶋市指定文化財に指定。


鹿嶋デジタル博物館のHPから:鎌足神社境内地


写真1:「鎌足神社」鳥居


写真2:境内の「大織冠藤原公古宅址碑」


写真3:社殿(祠)
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