大生山 延命院 観世音寺(おおうさん えんめいいん かんぜおんじ)。
場所:茨城県潮来市大生750。「大生神社」(前項)の東側の道路を北へ約90mで丁字路を右折(南東へ)、約130m進んで左折(東へ)、急な坂を下りて正面。駐車場なし。
寺伝によれば、大宝元年(701年)に多(オフ)氏の菩提寺として建立され、平安時代末期以降は大生氏の庇護により天台宗の寺院として隆盛を誇ったが、明治12年に火災に遭って衰退、現在では無住となっているようである。「大宝元年」創建というのは確かめようがないが、幸いにも火災を免れた本尊の「木像観世音菩薩立像」は、像の高さ161.2cm、カヤ(榧)材の一木造り、背刳りを施し、両腕とも肩先から別材、両足も別材で造られており、面相や衣装の衣文線など細部の制作手法等から制作年代は平安時代後期の作と考えられている、という(昭和33年、茨城県指定文化財に指定)。
因みに、当寺院の背後の台地には、「鳳凰台城(大生城)」という中世の城館跡があるらしい。伝承によれば、桓武天皇の皇子・葛原親王を祖として、第14代・大生八郎玄幹という人物(大生氏開祖)が、平安時代末期の寿永2年(1183年)に築いたとされる。この伝承によれば、(平安時代末期以降の)「大生氏」は桓武平氏の流れであり、所謂「常陸大掾氏」の一族であろう。「常陸大掾氏」は、もともと常陸国の大掾(国司の三等官)であるが、常陸国は親王任国であったため太守である親王は現地に赴任せず、二等官である介が事実上のトップであった。そして、平将門の反乱を制圧した常陸大掾・平貞盛が在庁官人らを掌握して、実権を握った。その子孫である「常陸大掾氏」の本拠地は筑波郡であったが、その庶家が水戸や行方・鹿島方面にも勢力を伸ばしていったとされる。「大生氏」もその一族で、多分、地名を採って名乗ったものと思われるので、「多氏」と「大生氏」とは直接の関係はないと考えられる。なお、「常陸大掾氏」は、佐竹氏により、天正18年(1590年)に宗家が、翌年には「三十三館主」と呼ばれた鹿島・行方郡の枝族の殆どが滅亡させられたという。
茨城県教育委員会のHPから(木造 観音菩薩立像)
写真1:「観世音寺」本堂? (観音像の収蔵庫)
写真2:同上建立の石碑らしい。
写真3:墓石群。
写真4:境内入口の石造の仏像
場所:茨城県潮来市大生750。「大生神社」(前項)の東側の道路を北へ約90mで丁字路を右折(南東へ)、約130m進んで左折(東へ)、急な坂を下りて正面。駐車場なし。
寺伝によれば、大宝元年(701年)に多(オフ)氏の菩提寺として建立され、平安時代末期以降は大生氏の庇護により天台宗の寺院として隆盛を誇ったが、明治12年に火災に遭って衰退、現在では無住となっているようである。「大宝元年」創建というのは確かめようがないが、幸いにも火災を免れた本尊の「木像観世音菩薩立像」は、像の高さ161.2cm、カヤ(榧)材の一木造り、背刳りを施し、両腕とも肩先から別材、両足も別材で造られており、面相や衣装の衣文線など細部の制作手法等から制作年代は平安時代後期の作と考えられている、という(昭和33年、茨城県指定文化財に指定)。
因みに、当寺院の背後の台地には、「鳳凰台城(大生城)」という中世の城館跡があるらしい。伝承によれば、桓武天皇の皇子・葛原親王を祖として、第14代・大生八郎玄幹という人物(大生氏開祖)が、平安時代末期の寿永2年(1183年)に築いたとされる。この伝承によれば、(平安時代末期以降の)「大生氏」は桓武平氏の流れであり、所謂「常陸大掾氏」の一族であろう。「常陸大掾氏」は、もともと常陸国の大掾(国司の三等官)であるが、常陸国は親王任国であったため太守である親王は現地に赴任せず、二等官である介が事実上のトップであった。そして、平将門の反乱を制圧した常陸大掾・平貞盛が在庁官人らを掌握して、実権を握った。その子孫である「常陸大掾氏」の本拠地は筑波郡であったが、その庶家が水戸や行方・鹿島方面にも勢力を伸ばしていったとされる。「大生氏」もその一族で、多分、地名を採って名乗ったものと思われるので、「多氏」と「大生氏」とは直接の関係はないと考えられる。なお、「常陸大掾氏」は、佐竹氏により、天正18年(1590年)に宗家が、翌年には「三十三館主」と呼ばれた鹿島・行方郡の枝族の殆どが滅亡させられたという。
茨城県教育委員会のHPから(木造 観音菩薩立像)
写真1:「観世音寺」本堂? (観音像の収蔵庫)
写真2:同上建立の石碑らしい。
写真3:墓石群。
写真4:境内入口の石造の仏像