神が宿るところ

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阿彌神社(茨城県阿見町竹来)(常陸国式内社・その5の1)

2018-05-05 23:27:56 | 神社
阿彌神社(あみじんじゃ)。通称:二の宮明神。同町内の同名の神社と区別して、通称:竹来阿彌神社(たかくあみじんじゃ)。
場所:茨城県稲敷郡阿見町竹来1366。「竹来中学校」の東側(グラウンド側)道路を北へ、茨城県道231号線(稲敷阿見線)との交点付近が正面入口。駐車場なし。
創建時期については諸説あり、推古天皇15年(607年)、舒明天皇3年(631年)、または天平勝宝年中(749~757年)ともされる。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が、崇神天皇48年(BC50年?)に東国(現・東海地方~関東地方)を治めたことにより、後に祭神として祀られたともいわれる。しかし、「常陸国風土記」の記述に従って当地が「普都大神」(フツ)が降り立った「高来(たかく)」の里であるということに結び付けられて、祭神を「普都大神」とする説もある。また、「普都大神」=「経津主神」(フツヌシ)としたうえで、「経津主神」=「建御雷神」(タケミカヅチ)とする(「古事記」に「建御雷之男神」の別名を「建布都神」(タケフツ)とする記述がある。)ことから、祭神を建御雷神(常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神と同じ)とする説もある。そして、当神社は、中世までには「鹿島明神」と呼ばれるようになっていたらしい。現在の主祭神は「建御雷之男命」となっているが、相殿に「経津主命」と「天児屋根命」(アメノコヤネ)を配祀しており(これにより「竹来三社」とも称されていたという。)、これは「常陸国風土記」にある「香島天之大神」の3社(「鹿島神宮」・「坂戸神社」・「沼尾神社」)に由来しているらしい。近世には、「信太郡」の一宮「楯縫神社」(茨城県美浦村郷中)(2018年3月24日記事)に次ぐ二宮として「二宮(鹿島)大明神」と呼ばれ、「信太郡」の西半分の総社とされたという。「(一宮)楯縫神社」とは深い関係があり、両社の間で霞ヶ浦を介した「普都大神」渡御の神事(鹿島神事)が行われていたとのこと。
当神社が式内社「阿彌神社」を名乗るようになったのは、安永年間(1772~1781年)という。その後、茨城県阿見町中郷の「阿弥神社」などと式内社「阿彌神社」であることを争った。当神社の方が社格が高いこと等から、当神社を式内社「阿彌神社」に比定する説が一般的だが、中郷の「阿弥神社」を推す説も有力で、いずれも「論社」ということになっている(式内社争いについては、次項で書く予定。)。


写真1:「阿彌神社」鳥居と「社号標」(「縣社延喜式内二宮阿弥神社」)


写真2:深い樹叢(「阿弥神社樹叢」として阿見町指定天然記念物となっている。)の奥に社殿がある。


写真3:社殿(拝殿)


写真4:社殿(本殿)
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