阿弥神社(あみじんじゃ)。同町内の同名の神社と区別して、通称:中郷阿彌神社、又は阿見の阿彌神社。
場所:茨城県稲敷郡阿見町中郷2-25-1。国道125号線「中郷」交差点から北へ入り、直ぐ左折(西へ)して、境内入口。ただし、社殿は長い参道(約200m)を北東へ進んだところにあり、社殿の裏は茨城県道231号線(稲敷阿見線)と接している。駐車場なし。なお、所在地は、区画整理により「中郷」となったが、それ以前は「阿見町阿見2353」となっていた。
社伝によれば、和銅元年(708年)の創建。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が、崇神天皇18年(BC80年?)に東国(あづまのくに、東海~関東地方一帯)を治めた事蹟を偲び、和銅元年(708年)に祠を建てて豊城入彦命を祭神として祀ったとされる(境内入口の説明板による。「崇神天皇18年」というのは崇神天皇48年の誤りではないだろうか?)。豊城入彦命は上毛野君や下毛野君などの始祖とされ、上野国二宮「赤城神社」(現・群馬県前橋市)、下野国一宮「二荒山神社」(栃木県宇都宮市)などの主祭神となっているが、初期ヤマト政権による地方平定の説話中の人物であり、実際に関東地方にまで来て治めたかは疑問視する説も多いようだ。ただし、別伝があり、元は海神を祀るもので、天平勝宝2年(750年)の神託により豊城入彦命を合祀したともいう。即ち、持統天皇5年(691年)の夏、霞ヶ浦沖が夜々怪しく光るので漁師が網を下ろすと、風雨とともに異人が現れた。異人は「海の神小童の神」と名乗り、霞ヶ浦の大毒魚の悪光が不漁と国家の愁をもたらすと言い残して光とともに波底に沈んだ。すると、雲が晴れて波が静まった。漁師は「海の神小童の神」を祀る「海神社」を村内の浄地に建立したが、後に社名が転訛して「網神社」になった、とする。
ということで、現在の祭神は豊城入彦命であるが、近世までは、祭神は武甕槌神(タケミカヅチ。常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神と同じ。)であったようである(「鹿島明神」と称する古文書があるほか、明暦3年(1657年)の棟札では単に「大明神」であるが、本地仏を十一面観音としていること等による。)。
さて、18世紀の終わり頃、当神社と前項の「(竹来)阿彌神社」、同村内の「熊野神社」の3社で、式内社「阿彌神社」を巡る争いが生じた。この辺りの事情は「阿見町史」に詳しいが、概略は次の通りである。当時、当神社は「大明神」、「(竹来)阿彌神社」は「二の宮鹿島大明神」、「熊野神社」は「熊野権現」と称しており、いずれも「阿彌神社」を名乗ってはいなかった。ところが、安永年間(1772~1781年)に「(竹来)阿彌神社」が「阿彌神社二の宮鹿島大明神」に社名を変えた。次いで、「(阿見)熊野権現」も「阿彌神社熊野権現」と称するようになった。これに対して、当神社は天明元年(1782年)に京都の吉田家から「阿彌神社」の称号につき許可を得た。同年、「熊野権現」は、「(竹来)阿彌神社」が「阿彌神社」を僭称しているとして、寺社奉行に訴え出た。「熊野権現」は延暦年中(782~806年)に当地に鎮座し、本地仏である阿弥陀仏の「阿弥」から「阿見」という地名になったのだ、と主張したのに対し、「(竹来)阿彌神社」は、「熊野権現」は元々「白山権現」だったのを熊野の修験者が「熊野権現」を勧請したもので、さほど古い由緒を持つものではない、と反論した。寺社奉行の裁定は、どちらも式内社「阿彌神社」と認める、という奇妙なものだった。そして、このとき、当神社は「引合」として呼び出され、「阿見(あけん)神社」と称するように指示された。ひどい仕打ちだが、元々当神社は土豪の野口氏が名主として庇護していたが、江戸中期には名主も免ぜられ衰退していた一方、「熊野権現」の別当「滝音院」が領主・丹羽氏と密接な関係にあったことが背景にある。当神社は、文政元年(1818年)にも吉田家から許状と「阿彌神社」の額を頂戴したが、文政3年(1820年)に「(竹来)阿彌神社」から訴えられ、許状と額を返却するよう命じられた(これに対して、吉田家は、当神社が式内社「阿彌神社」であるとして返却を拒否。)。結局、文政12年(1829年)、3社とも「阿彌神社」と名乗って良いが、「式内社」と名乗るのは許さない、という決着となった。明治期に入ると、元々修験の「滝音院」は存続できず、「熊野権現」は当神社に合祀された。しかし、この間、当神社代々の神主であった野口家の血統が絶え、「滝音院」の宮本家が還俗して神主となった、ということである。
以上のような経緯で、式内社「阿彌神社」は前項の「(竹来)阿彌神社」と当神社の2社が論社ということになり、一般的には社格が高かった「(竹来)阿彌神社」の方が有力とされているようだが、「阿見」(古代「阿見郷」に比定)に鎮座する当神社の方を推す説もかなり強いようである。
写真1:「阿弥神社」境内入口、社号標。
写真2:参道途中の鳥居(銅製?)。扁額は「阿彌神社」。
写真3:社殿。こちらの額でも「阿彌神社」となっているが、茨城県神社庁HPでは「阿弥神社」となっている。
場所:茨城県稲敷郡阿見町中郷2-25-1。国道125号線「中郷」交差点から北へ入り、直ぐ左折(西へ)して、境内入口。ただし、社殿は長い参道(約200m)を北東へ進んだところにあり、社殿の裏は茨城県道231号線(稲敷阿見線)と接している。駐車場なし。なお、所在地は、区画整理により「中郷」となったが、それ以前は「阿見町阿見2353」となっていた。
社伝によれば、和銅元年(708年)の創建。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が、崇神天皇18年(BC80年?)に東国(あづまのくに、東海~関東地方一帯)を治めた事蹟を偲び、和銅元年(708年)に祠を建てて豊城入彦命を祭神として祀ったとされる(境内入口の説明板による。「崇神天皇18年」というのは崇神天皇48年の誤りではないだろうか?)。豊城入彦命は上毛野君や下毛野君などの始祖とされ、上野国二宮「赤城神社」(現・群馬県前橋市)、下野国一宮「二荒山神社」(栃木県宇都宮市)などの主祭神となっているが、初期ヤマト政権による地方平定の説話中の人物であり、実際に関東地方にまで来て治めたかは疑問視する説も多いようだ。ただし、別伝があり、元は海神を祀るもので、天平勝宝2年(750年)の神託により豊城入彦命を合祀したともいう。即ち、持統天皇5年(691年)の夏、霞ヶ浦沖が夜々怪しく光るので漁師が網を下ろすと、風雨とともに異人が現れた。異人は「海の神小童の神」と名乗り、霞ヶ浦の大毒魚の悪光が不漁と国家の愁をもたらすと言い残して光とともに波底に沈んだ。すると、雲が晴れて波が静まった。漁師は「海の神小童の神」を祀る「海神社」を村内の浄地に建立したが、後に社名が転訛して「網神社」になった、とする。
ということで、現在の祭神は豊城入彦命であるが、近世までは、祭神は武甕槌神(タケミカヅチ。常陸国一宮「鹿島神宮」の祭神と同じ。)であったようである(「鹿島明神」と称する古文書があるほか、明暦3年(1657年)の棟札では単に「大明神」であるが、本地仏を十一面観音としていること等による。)。
さて、18世紀の終わり頃、当神社と前項の「(竹来)阿彌神社」、同村内の「熊野神社」の3社で、式内社「阿彌神社」を巡る争いが生じた。この辺りの事情は「阿見町史」に詳しいが、概略は次の通りである。当時、当神社は「大明神」、「(竹来)阿彌神社」は「二の宮鹿島大明神」、「熊野神社」は「熊野権現」と称しており、いずれも「阿彌神社」を名乗ってはいなかった。ところが、安永年間(1772~1781年)に「(竹来)阿彌神社」が「阿彌神社二の宮鹿島大明神」に社名を変えた。次いで、「(阿見)熊野権現」も「阿彌神社熊野権現」と称するようになった。これに対して、当神社は天明元年(1782年)に京都の吉田家から「阿彌神社」の称号につき許可を得た。同年、「熊野権現」は、「(竹来)阿彌神社」が「阿彌神社」を僭称しているとして、寺社奉行に訴え出た。「熊野権現」は延暦年中(782~806年)に当地に鎮座し、本地仏である阿弥陀仏の「阿弥」から「阿見」という地名になったのだ、と主張したのに対し、「(竹来)阿彌神社」は、「熊野権現」は元々「白山権現」だったのを熊野の修験者が「熊野権現」を勧請したもので、さほど古い由緒を持つものではない、と反論した。寺社奉行の裁定は、どちらも式内社「阿彌神社」と認める、という奇妙なものだった。そして、このとき、当神社は「引合」として呼び出され、「阿見(あけん)神社」と称するように指示された。ひどい仕打ちだが、元々当神社は土豪の野口氏が名主として庇護していたが、江戸中期には名主も免ぜられ衰退していた一方、「熊野権現」の別当「滝音院」が領主・丹羽氏と密接な関係にあったことが背景にある。当神社は、文政元年(1818年)にも吉田家から許状と「阿彌神社」の額を頂戴したが、文政3年(1820年)に「(竹来)阿彌神社」から訴えられ、許状と額を返却するよう命じられた(これに対して、吉田家は、当神社が式内社「阿彌神社」であるとして返却を拒否。)。結局、文政12年(1829年)、3社とも「阿彌神社」と名乗って良いが、「式内社」と名乗るのは許さない、という決着となった。明治期に入ると、元々修験の「滝音院」は存続できず、「熊野権現」は当神社に合祀された。しかし、この間、当神社代々の神主であった野口家の血統が絶え、「滝音院」の宮本家が還俗して神主となった、ということである。
以上のような経緯で、式内社「阿彌神社」は前項の「(竹来)阿彌神社」と当神社の2社が論社ということになり、一般的には社格が高かった「(竹来)阿彌神社」の方が有力とされているようだが、「阿見」(古代「阿見郷」に比定)に鎮座する当神社の方を推す説もかなり強いようである。
写真1:「阿弥神社」境内入口、社号標。
写真2:参道途中の鳥居(銅製?)。扁額は「阿彌神社」。
写真3:社殿。こちらの額でも「阿彌神社」となっているが、茨城県神社庁HPでは「阿弥神社」となっている。