神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

岩谷山 清浄院 佛國寺

2019-07-13 23:43:34 | 寺院
岩谷山 清浄院 佛國寺(いわやさん しょうじょういん ぶっこくじ)。
場所:茨城県東茨城郡城里町塩子1736。茨城県道51号線(水戸茂木線)沿い「七会小学校」入口付近から北西へ約1kmのところで茨城県道39号線(笠間緒川線)に入り、北へ約2.2km。駐車場有り。なお、県道39号線は途中から道路幅が狭くなる(当寺院の手前400mほど)ので注意。
創建年代は不明であるが、天平元年(729年)に行基の開基、弘法大師(空海)が堂宇を建立したともいう。慶長年間(1596~1615年)、中興の教導上人のときに後陽成天皇から勅額を受けた。寛文3年(1663年)には水戸藩第2代藩主・徳川光圀が訪れ、静かな環境が気に入り、連泊したという。現在は真言宗豊山派の寺院で、本尊は大日如来。「関東女人高野山」とも呼ばれ、「常陸三十三観音霊場」の第33番札所(つまり、結願の寺院)であり、室町時代末期~桃山時代初期頃の作とみられる「鋳造 十一面千手観音菩薩像」は茨城県指定有形文化財となっている。「女人高野」と「観音」については、面白い伝説がある。即ち、称徳天皇の崩御後、弓削道鏡は失脚して下野国薬師寺別当に左遷され、下野国(現・栃木県)で死んだとされているが、伝説によれば、称徳天皇と道鏡は旧・御前山村(現・茨城県常陸太田市)に隠れ住み(「御前」というのは称徳女帝のことである。)、しばしば当寺院を参拝した。当寺院の観音像は称徳天皇をモデルにしたものであり、であればこそ、女人の参拝も拒まなかった、というのである。
さて、当寺院には「奥之院」と呼ばれる場所がある。巨大な岩が露出したところで、かつては崖に懸造りの観音堂があったという。また、今ではかなり埋まってしまっているが、洞窟のような場所がある。ここは、全国を遊行し多くの木造仏像を彫ったという木喰五行(明満)上人に「木食戒」(穀断ちし、火食・肉食を避けるなど)を授けたという当寺院第18世観海上人が葬られた場所と言い、日本廻国・千体仏を彫り終えた木喰上人が無言の報告をしたという。また、木喰上人は93歳で亡くなったという記録があるが、どこで亡くなったかは不明となっている。当寺院では、木喰上人も当地が終焉の場所であるとしているようである。


茨城県教育委員会のHPから(鋳造 十一面千手観音菩薩像)

城里町教育委員会のHPから(佛國寺奥の院)


写真1:県道からの「佛國寺」入口。入って右手に駐車場とトイレ、左が参道、正面道路を直進して突き当りの奥が「奥之院」で、道路は急カーヴして境内に入る。


写真2:参道の石段


写真3:境内。寺号標「勅願寺 岩谷山清浄院佛國寺]


写真4:本堂。旧本堂は平成6年に放火に遭い、堂宇や古文書などが焼失してしまったという。


写真5:観音堂


写真6:梵鐘。茨城県指定有形文化財。貞享元年(1684年)の銘がある。


写真7:「奥之院」前


写真8:同上、巨大な岩が圧し掛かるように露出している。


写真9:同上、「三昧洞穴の跡」


写真10:同上


写真11:「奥之院」全景
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