神が宿るところ

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河合神社(茨城県常陸太田市)(常陸国式外社・その8)

2019-07-27 23:12:15 | 神社
河合神社(かわいじんじゃ)。
場所:茨城県常陸太田市上河合町1。国道349号線「上河合」交差点から北西へ約220m(JR水郡線の踏切を越えてすぐ)、交差点を左折(南西へ。JR水郡線「河合」駅入口の反対側へ)、道なりに約280m。「幸久小学校」の南側に当たる。駐車スペースあり。
社伝によれば、仁寿元年(851年)、村人の夢に「当地に鹿島明神を勧請すべし」とのお告げがあり、常陸一宮「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)より勧請して創建されたという(ただし、境内にある上河合町会の説明板では、創建を元慶元年(938年)としている。)。中世には、佐竹氏の家臣・川井氏が当地を領しており、現・JR水郡線「河合」駅付近を中心として「河合城」を築いた。当神社は「河合城」の東側に接するような位置にあったらしく、川井氏から篤く庇護されたようである。元禄6年(1693年)、第2代水戸藩主・徳川光圀が社頭の藤花を見て、「遊河合村看藤花」と題して「蒙密藤花刺眼新 垂枝帯両紫雲匂 蔓松縷絡絲千尺 恨不繋留帰去人」という詩を詠んだという。現在の祭神は、武甕槌命(タケミカヅチ)。
さて、「日本三代実録」元慶元年(877年)条に「常陸国正六位上河江神に従五位下を授ける」という記事があるが、江戸時代には「河江神(社)」が所在不明となっていた。このため、水戸藩が地勢・郷名から当時「鹿島明神」と称していた当神社を「河江神(社)」に比定し、寛政12年(1800年)に現社名に改めたという。確かに、当神社の南、約450mのところに久慈川が流れ、比較的大きな支流がいくつか合流するような地形にあるが、「日本三代実録」には郡名の記載もないので、当神社に比定する根拠は薄いのではないかとも思ってしまう。祭神がタケミカヅチというのは、常陸国における国土開発(蝦夷征伐を含む。)の守護神として祀られるケースが多いので、当神社もそのような意味があったのではないかともいわれており、川井氏など当地の領主が信仰したのも頷ける。
なお、常陸国久慈郡鎮座の式内社「立野神社」(前項)が風神として大和国式内社(名神大)「龍田大社」から勧請されたことに絡み、「龍田の風神・広瀬の水神」と並び称された大和国式内社(名神大)「廣瀬大社」(現・奈良県北葛城郡河合町川合に鎮座)から勧請された水神が当神社ではないか、という説もある。その場合は、祭神の問題がある(「廣瀬大社」の主祭神は若宇加能売命(ワカウカノメ))が、「河江神(社)」自体が所在不明になっていたのだから、何とも言えないところである。さて、どうだろうか。


写真1:「河合神社」鳥居と社号標(「村社 河合神社」)。典型的な「神明鳥居」だが、朱塗りは比較的珍しいのではないだろうか。


写真2:由緒碑


写真3:社殿正面


写真4:拝殿。背後は小学校の体育館。


写真5:本殿


写真6:「幸久橋」北詰の堤防上にある万葉歌碑(国道349号線「上河合」交差点から南に約400m。「幸久橋」は橋脚にひび割れが発見されて通行禁止となり、調査の結果再開不能となっているので注意。)。「久慈川は 幸くあり待て 潮船に 真楫繁貫き 吾は帰り来む」(巻20-4368、作者:久慈郡丸子部佐壮) 、現代語訳「久慈川は無事で変わりなく待っていてくれ。船にたくさんの楫を付けて私は帰って来よう」。作者がどの辺りに住んでいたかは諸説あるが、防人として徴用されて久慈川から船で旅立つところを歌ったものだろう。高さ約4.8mの細長い石碑がユニーク。北側は「水神宮」、西側はJR水郡線の線路、南側は久慈川。
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