大神宮(だいじんぐう)。通称:村松大神宮。茨城一の宮大神宮。
場所:茨城県那珂郡東海村村松1。国道245号線「虚空蔵尊入口」から南東へ約250m、突き当りを左折、直ぐ。一の鳥居を潜って進み、二の鳥居の横に専用駐車場有り。
社伝によれば、和銅元年(708年)、平磯前浦の巨岩が光を発したため村人が占うと、「伊勢の神」であるということがわかった。よって、その神を奉斎したのが創祀で、「伊勢神宮」(現・三重県伊勢市)から神職が来て奉仕したという。大同年中(806~810年)、平城天皇より「村松五所大明神」の勅号を賜ったともいう(「五所」は、伊勢・加茂・祗園・稲荷・春日の神々を祀ったことによる。)。康平3年(1060年)には、源頼義・義家父子が奥州討伐の際に戦勝を祈願し、社殿の造営・神領の寄進をした。江戸時代に入ると、水戸藩の庇護を受け、元禄7年(1694年)に水戸第2代藩主・徳川光圀が新たに神殿を造営し、同9年(1696年)に改めて「伊勢神宮(内宮)」から分霊を受けて「天照皇大神宮」と称した、という。このため、現在の祭神は、「伊勢神宮」と同じ、天照皇大神、天手力男神、萬幡豊秋津姫神3柱。御利益は家内安全(特に子孫繁栄、安産)、交通安全など。上記の由緒もあり、かつては海上からの目印にもなっていたようで、海上安全の神として船乗り、漁民等からの信仰が篤かったようである。なお、当神社の北、約2km(直線距離)のところに、外宮として「豊受皇大神宮」(茨城県那珂郡東海村白方662)がある。
大神宮のHP
写真1:「大神宮」境内入口(一の鳥居)。「村松虚空蔵堂」と隣り合っているが、仲が良くないようだ(わざわざ「別です。」と書いてある。)。
写真2:二の鳥居。これより先は「車止め」になっており、この向かって右に結構広い駐車場がある。
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:境内社「晴嵐神社」。元は「国立療養所 晴嵐荘病院」敷地内に医薬の神として大己貴神を祀っていたものだが、終戦後の政教分離政策により当神社の境内末社となったもの。
写真6:「義公お腰掛けの石」(「義公」は徳川光圀の諡号)
場所:茨城県那珂郡東海村村松1。国道245号線「虚空蔵尊入口」から南東へ約250m、突き当りを左折、直ぐ。一の鳥居を潜って進み、二の鳥居の横に専用駐車場有り。
社伝によれば、和銅元年(708年)、平磯前浦の巨岩が光を発したため村人が占うと、「伊勢の神」であるということがわかった。よって、その神を奉斎したのが創祀で、「伊勢神宮」(現・三重県伊勢市)から神職が来て奉仕したという。大同年中(806~810年)、平城天皇より「村松五所大明神」の勅号を賜ったともいう(「五所」は、伊勢・加茂・祗園・稲荷・春日の神々を祀ったことによる。)。康平3年(1060年)には、源頼義・義家父子が奥州討伐の際に戦勝を祈願し、社殿の造営・神領の寄進をした。江戸時代に入ると、水戸藩の庇護を受け、元禄7年(1694年)に水戸第2代藩主・徳川光圀が新たに神殿を造営し、同9年(1696年)に改めて「伊勢神宮(内宮)」から分霊を受けて「天照皇大神宮」と称した、という。このため、現在の祭神は、「伊勢神宮」と同じ、天照皇大神、天手力男神、萬幡豊秋津姫神3柱。御利益は家内安全(特に子孫繁栄、安産)、交通安全など。上記の由緒もあり、かつては海上からの目印にもなっていたようで、海上安全の神として船乗り、漁民等からの信仰が篤かったようである。なお、当神社の北、約2km(直線距離)のところに、外宮として「豊受皇大神宮」(茨城県那珂郡東海村白方662)がある。
大神宮のHP
写真1:「大神宮」境内入口(一の鳥居)。「村松虚空蔵堂」と隣り合っているが、仲が良くないようだ(わざわざ「別です。」と書いてある。)。
写真2:二の鳥居。これより先は「車止め」になっており、この向かって右に結構広い駐車場がある。
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:境内社「晴嵐神社」。元は「国立療養所 晴嵐荘病院」敷地内に医薬の神として大己貴神を祀っていたものだが、終戦後の政教分離政策により当神社の境内末社となったもの。
写真6:「義公お腰掛けの石」(「義公」は徳川光圀の諡号)