鏡岩(かがみいわ)。別名:月鏡石。
場所:茨城県常陸大宮市照山1578。国道118号線「小貫入口」交差点から茨城県道165号線(山方常陸大宮線)を東に約1.6kmのところ(「奥久慈グリーンライン(照山線)」案内板が建てられている。)で左折(北~北東へ)して約1.1km進み、「鏡岩入口」案内板付近で左折(北西へ)、二岐では左へ進んで行き止まりに駐車場がある。二岐の右は地図で見ると「関喜一牧場」という牧場で、「鏡岩」へは、駐車場から牧場の縁を回り込むようにして未舗装の小道を進んだ先にある。
「鏡岩」・「鏡石」と呼ばれるものは、地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、光を反射するほど平滑な「鏡肌(スリッケンサイド)」と呼ばれる面を持つ岩を言う。このようなものは各地にあり、埼玉県神川町、岐阜県岐阜市、三重県亀山市、新潟県佐渡市などのものが有名で、国や県などの天然記念物に指定されていることも多い。特に、埼玉県神川町の「御嶽の鏡岩」は、武蔵国五宮(社伝では二宮)「金鑚神社」(式内社・名神大)から登ってゆく「御嶽山」の中腹にあって、神体山を祭祀対象として本殿を設けない「金鑚神社」にしてみれば、これも1つの信仰対象だったのだろう。
さて、常陸大宮市の「鏡岩」も石英斑岩の断層滑り面が露出しているもので、これが「常陸国風土記」久慈郡条の記事にある「石鏡」ではないかともいわれている。即ち、「久慈郡家の西北の方向6里に河内の里がある。(中略)・・・その東の山に石の鏡がある。昔、「魑魅」(すだま、おに?)が居たが、群れ集まってきて鏡をもてあそび、自分の姿が映るのを見ると、すぐに自然と居なくなってしまった。」(現代語訳)というもの。「久慈郡家」は現・常陸大宮市薬谷町・大里町付近にあったことがほぼ確実(「長者屋敷遺跡」2019年9月7日記事参照)で、「河内里」は現・常陸太田市(上・下)宮河内町が遺称地とされるので、郡家からの方向は西北だが、距離は合っていない(直線距離で約10kmあるのに対して、古代の6里は約3.2km)。また、「鏡岩」のある照山地区は、宮河内町からすると、西側になる。なので、「常陸風土記」の「石鏡」をこの「鏡岩」に比定するのには疑問もあるのだが、伝承によれば、当地は藤原(中臣)鎌足の所領で(藤原鎌足は現・茨城県鹿嶋市の生まれとする説がある。「鎌足神社」2017年11月18日記事参照。)、この石の小片は朝廷に献上された由緒あるものであるとして、公命がないと採取できないものであったという。また、江戸時代には、「西金砂神社」の祭礼に行く途中に、女性たちが姿を映して髪を梳かしたともいわれる。残念ながら、現在ではかなり風化してしまい、光沢は失われているが、茨城県指定天然記念物に指定されている。
因みに、「魑魅」は、今でも「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」という形で使うことがあるが、「魑魅」は山の妖怪、「魍魎」は川の妖怪とされる。下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)の「蝄」の字は虫偏だが、「魍」と同様、水の精霊を示すものだろう。「常陸国風土記」の時代でも、こうした自然の精霊(あるいは妖怪)が身近であったことが窺われる。
茨城県教育委員会のHPから(鏡岩)
写真1:「鏡岩」への入口付近。看板があったので、その奥の藪の中か、と思ったのだが、写真右手の方に小道がある。
写真2:小道を進むと東屋があって、その下に「鏡岩」がある。
写真3:「鏡岩」
写真4:石祠?
場所:茨城県常陸大宮市照山1578。国道118号線「小貫入口」交差点から茨城県道165号線(山方常陸大宮線)を東に約1.6kmのところ(「奥久慈グリーンライン(照山線)」案内板が建てられている。)で左折(北~北東へ)して約1.1km進み、「鏡岩入口」案内板付近で左折(北西へ)、二岐では左へ進んで行き止まりに駐車場がある。二岐の右は地図で見ると「関喜一牧場」という牧場で、「鏡岩」へは、駐車場から牧場の縁を回り込むようにして未舗装の小道を進んだ先にある。
「鏡岩」・「鏡石」と呼ばれるものは、地殻変動により硬い岩が断層活動で磨かれたもので、光を反射するほど平滑な「鏡肌(スリッケンサイド)」と呼ばれる面を持つ岩を言う。このようなものは各地にあり、埼玉県神川町、岐阜県岐阜市、三重県亀山市、新潟県佐渡市などのものが有名で、国や県などの天然記念物に指定されていることも多い。特に、埼玉県神川町の「御嶽の鏡岩」は、武蔵国五宮(社伝では二宮)「金鑚神社」(式内社・名神大)から登ってゆく「御嶽山」の中腹にあって、神体山を祭祀対象として本殿を設けない「金鑚神社」にしてみれば、これも1つの信仰対象だったのだろう。
さて、常陸大宮市の「鏡岩」も石英斑岩の断層滑り面が露出しているもので、これが「常陸国風土記」久慈郡条の記事にある「石鏡」ではないかともいわれている。即ち、「久慈郡家の西北の方向6里に河内の里がある。(中略)・・・その東の山に石の鏡がある。昔、「魑魅」(すだま、おに?)が居たが、群れ集まってきて鏡をもてあそび、自分の姿が映るのを見ると、すぐに自然と居なくなってしまった。」(現代語訳)というもの。「久慈郡家」は現・常陸大宮市薬谷町・大里町付近にあったことがほぼ確実(「長者屋敷遺跡」2019年9月7日記事参照)で、「河内里」は現・常陸太田市(上・下)宮河内町が遺称地とされるので、郡家からの方向は西北だが、距離は合っていない(直線距離で約10kmあるのに対して、古代の6里は約3.2km)。また、「鏡岩」のある照山地区は、宮河内町からすると、西側になる。なので、「常陸風土記」の「石鏡」をこの「鏡岩」に比定するのには疑問もあるのだが、伝承によれば、当地は藤原(中臣)鎌足の所領で(藤原鎌足は現・茨城県鹿嶋市の生まれとする説がある。「鎌足神社」2017年11月18日記事参照。)、この石の小片は朝廷に献上された由緒あるものであるとして、公命がないと採取できないものであったという。また、江戸時代には、「西金砂神社」の祭礼に行く途中に、女性たちが姿を映して髪を梳かしたともいわれる。残念ながら、現在ではかなり風化してしまい、光沢は失われているが、茨城県指定天然記念物に指定されている。
因みに、「魑魅」は、今でも「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」という形で使うことがあるが、「魑魅」は山の妖怪、「魍魎」は川の妖怪とされる。下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)の「蝄」の字は虫偏だが、「魍」と同様、水の精霊を示すものだろう。「常陸国風土記」の時代でも、こうした自然の精霊(あるいは妖怪)が身近であったことが窺われる。
茨城県教育委員会のHPから(鏡岩)
写真1:「鏡岩」への入口付近。看板があったので、その奥の藪の中か、と思ったのだが、写真右手の方に小道がある。
写真2:小道を進むと東屋があって、その下に「鏡岩」がある。
写真3:「鏡岩」
写真4:石祠?