神が宿るところ

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平沢官衙遺跡

2020-12-12 23:40:34 | 史跡・文化財
平沢官衙遺跡(ひらさわかんがいせき)。
場所:茨城県つくば市平沢353ほか。国道125号線「北条新田」交差点から北西に入って約500m進み、茨城県道138号線(石岡つくば線)との交差点(案内看板あり)を右折(北東へ)、約350mで左手(北~北西側)に駐車場。そこから左折(北西へ)して約60mで案内所(案内所まで駐車場が続いている。)。
「平沢官衙遺跡」は、奈良~平安時代の常陸国筑波郡の郡家(郡衙)跡とされる。郡家は、郡庁(役人が政務を行う役所)、正倉(税として徴収された稲、布などの倉庫)、館(国司の宿泊・饗応などの旅館・宴会場)、厨(食事を作る場所)などで構成されるが、発見されたのは正倉部分と推定されている。当地は、筑波山の南方で、「平沢山」と通称される丘陵の南の比高約5~10mの台地上にあり、西側の「中台台地」(東西約500m、南北約1,000m)と東側の「平沢台地」(東西・南北約250m)からなる。この2つの台地からは、奈良~平安時代の瓦や土器等が出土し、礎石とみられる石の遺存が知られていたため、早くから郡家あるいは郡寺の跡とする説があった。昭和50年に県営住宅団地造成に先立つ調査により遺跡としての重要性が判明して保存運動が起こり、昭和55年には国の史跡となった。そして、平成5~6年度に歴史公園として復原整備するための資料収集を目的に発掘調査が実施された。その結果、東西 200m、南北160mの調査範囲内において掘立柱建物跡55棟分を確認し、そのうち約3分の2が高床式倉庫と想定される総柱式建物跡で、コの字やLの字の形に整然と配置され、一部の柱穴から炭化米が出土した。そのほか、土の基壇の上に礎石が置かれた礎石建物跡4基(礎石が移動されていたため建物の規模は不明)、北側・西側に大溝跡、東南部・北部に柵列跡が確認された。これらの遺跡は、古墳時代後期の竪穴住居跡(25棟)を壊して造られていること、出土物、建物跡の形状等から作られていることなどから、8~11世紀に造営されたものと推定されている。なお、現在では、高床式の倉庫建物が復元され、「平沢官衙遺跡歴史ひろば 」という歴史公園になっている。


茨城県教育委員会のHPから(平沢官衙遺跡)


写真1:「平沢官衙遺跡」入口


写真2:復元された倉庫建物


写真3:同上、礎石も。


写真4:同上


写真5:同上


写真6:同上、「3号建物」(第33号建物跡)。掘立柱建物は1柱穴1柱が普通であるところ、ここでは側柱穴に2本の柱痕跡が見つかった。これは、1本は床上まで伸びて桁・梁を支える通し柱、もう1本は床を支える添束(柱)と考えられ、柱の間に板壁を落とし込む板倉で復元されたという。屋根は切妻。古代の正倉はこういう形が多かったらしい。


写真7:同上、「2号建物」(第18号建物跡)。本遺跡の中で最大級の建物で、「法倉」と呼ばれるものと推定し、土壁構造が多かったとされるため、土倉で復元したという。奈良「法隆寺」の国宝「網封蔵」を参考にしたとのこと。


写真8:同上、「1号建物」(第19号建物跡)。外周柱穴列を屋根支柱と推定し、奈良「東大寺」・「唐招提寺」の校倉を参考にして復元したという。


写真9:北側に見える「筑波山」。
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