佐都ヶ岩屋古墳(さどがいわやこふん)。平沢古墳群1号墳。
場所:茨城県つくば市平沢584。茨城県道138号線(石岡つくば線)の「平沢官衙遺跡」(前項)入口付近から北東へ約400mのところで右折、以下、ゴルフ場「つくば国際CC」への案内看板の通り進む。約450mで同ゴルフ場入口手前に平沢古墳群の案内板があり、その道路の左側に2号墳、右側に(山道を2~3分歩いた奥に)3号墳がある。そこから「つくば国際CC」のクラブハウスに向かって急な坂道を約910m進んで、「4カーブ」という表示が出ているところの西側に1号墳(佐都ヶ岩屋古墳)がある。駐車場なし。
平沢古墳群は、筑波山の南、約5kmに位置する平沢山の北~東側斜面に分布する古墳群で、確認されたのは6基、現存は4基とされる。1~3号墳は道路から近く、観察しやすいのと、いずれも石室が開口しているのが特徴。当地には「三十六岩屋」という伝承があって、かつてはもっと多くの古墳が存在していたらしい。現存する4基のうち、1号墳の通称「佐都ヶ岩屋古墳」が最も大きく、南北約25m、東西約35m、高さ約7mの方墳とされる。南側に大きな板石を組み合わせた複室構造の横穴式石室が開口している。石室は、全長7.65m、奥室長2.15m、幅5.45m、前室長2.5m、幅2.1m、羨道長2.1m、幅2.1m、高さ1.7mという大きさで、奥室はT字形をしているとのこと。ゴルフ場の敷地の中にあるせいで、あまり訪問する人もないのか、雑草に覆われ、枯れ木が被さっていたりと、どこからどこまでが古墳なのか、どのくらいの大きさなのか、よくわからない。しかし、石室を見ると板石の積み方が精巧で、「平沢官衙遺跡」(前項)を見下ろす標高145mの場所にあることから、「平沢官衙遺跡」=筑波郡家に関係する有力者、つまり地元豪族出身の郡司等の墳墓の可能性が高いと思われる。築造時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、7世紀半ば~後半頃とみられている。因みに、7世紀半ば以降というと、所謂「大化の薄葬令」が出されたのが大化2年(646年)で、古墳が小型簡素化され、仏教式の葬礼も普及してくるにつれて、古墳自体が造られなくなっていく時期に当たる。
なお、開口した石室のある古墳を俗に「岩屋」といい、「佐都ヶ岩屋古墳」には、平将門の娘・瀧夜叉姫が隠れ住んだところという伝説があるとのこと。蛇足ながら、瀧夜叉姫は、歌舞伎などの創作上の人物で、京都「貴船明神」から妖術を授けられ、手下を集めて朝廷転覆を図ったという設定になっている。よって、この伝説も江戸時代頃のものだろうと思われる。
写真1:「平沢古墳群2号墳」。通称:「開山岩屋古墳」。
写真2:同上、石室開口部の前に立つ「法華一字一石経 雲外謹書」という刻字がある石柱。この先を下りていくと墓地があるが、現在、寺院は無い。代わりに「平澤八幡神社」があるが、境内に「石造六角地蔵宝幢」(茨城県指定文化財)などが現存するので、かつては寺院もあったのだろう。
写真3:同上、石室開口部。玄門の形が蓮弁を表現したもので、仏教の影響を受けているという説があるとのこと。
写真4:「平沢古墳群3号墳」。通称:「前島岩屋古墳」。一辺約19mの方墳とされる。なお、ここから南東側に少し下ったところに4号墳があるらしいが、よくわからず、行くのを断念した。
写真5:同上、石室開口部
写真6:石室内部に石仏が祀られていた。壁面に「大日堂」と刻されているとのことで、大日如来だろうか。古墳の、後世の再利用と思われる。
写真7:「佐都ヶ岩屋古墳(平沢古墳群1号墳)」。つくば市指定史跡。
写真8:同上、石室開口部
写真9:同上、
写真10:同上、石室内部。奥が明るいのは、天井板が無くなって太陽光が差し込んでいるため。
場所:茨城県つくば市平沢584。茨城県道138号線(石岡つくば線)の「平沢官衙遺跡」(前項)入口付近から北東へ約400mのところで右折、以下、ゴルフ場「つくば国際CC」への案内看板の通り進む。約450mで同ゴルフ場入口手前に平沢古墳群の案内板があり、その道路の左側に2号墳、右側に(山道を2~3分歩いた奥に)3号墳がある。そこから「つくば国際CC」のクラブハウスに向かって急な坂道を約910m進んで、「4カーブ」という表示が出ているところの西側に1号墳(佐都ヶ岩屋古墳)がある。駐車場なし。
平沢古墳群は、筑波山の南、約5kmに位置する平沢山の北~東側斜面に分布する古墳群で、確認されたのは6基、現存は4基とされる。1~3号墳は道路から近く、観察しやすいのと、いずれも石室が開口しているのが特徴。当地には「三十六岩屋」という伝承があって、かつてはもっと多くの古墳が存在していたらしい。現存する4基のうち、1号墳の通称「佐都ヶ岩屋古墳」が最も大きく、南北約25m、東西約35m、高さ約7mの方墳とされる。南側に大きな板石を組み合わせた複室構造の横穴式石室が開口している。石室は、全長7.65m、奥室長2.15m、幅5.45m、前室長2.5m、幅2.1m、羨道長2.1m、幅2.1m、高さ1.7mという大きさで、奥室はT字形をしているとのこと。ゴルフ場の敷地の中にあるせいで、あまり訪問する人もないのか、雑草に覆われ、枯れ木が被さっていたりと、どこからどこまでが古墳なのか、どのくらいの大きさなのか、よくわからない。しかし、石室を見ると板石の積み方が精巧で、「平沢官衙遺跡」(前項)を見下ろす標高145mの場所にあることから、「平沢官衙遺跡」=筑波郡家に関係する有力者、つまり地元豪族出身の郡司等の墳墓の可能性が高いと思われる。築造時期は、羨道と前室を分ける前門が整ったL字形に加工されている特徴から、7世紀半ば~後半頃とみられている。因みに、7世紀半ば以降というと、所謂「大化の薄葬令」が出されたのが大化2年(646年)で、古墳が小型簡素化され、仏教式の葬礼も普及してくるにつれて、古墳自体が造られなくなっていく時期に当たる。
なお、開口した石室のある古墳を俗に「岩屋」といい、「佐都ヶ岩屋古墳」には、平将門の娘・瀧夜叉姫が隠れ住んだところという伝説があるとのこと。蛇足ながら、瀧夜叉姫は、歌舞伎などの創作上の人物で、京都「貴船明神」から妖術を授けられ、手下を集めて朝廷転覆を図ったという設定になっている。よって、この伝説も江戸時代頃のものだろうと思われる。
写真1:「平沢古墳群2号墳」。通称:「開山岩屋古墳」。
写真2:同上、石室開口部の前に立つ「法華一字一石経 雲外謹書」という刻字がある石柱。この先を下りていくと墓地があるが、現在、寺院は無い。代わりに「平澤八幡神社」があるが、境内に「石造六角地蔵宝幢」(茨城県指定文化財)などが現存するので、かつては寺院もあったのだろう。
写真3:同上、石室開口部。玄門の形が蓮弁を表現したもので、仏教の影響を受けているという説があるとのこと。
写真4:「平沢古墳群3号墳」。通称:「前島岩屋古墳」。一辺約19mの方墳とされる。なお、ここから南東側に少し下ったところに4号墳があるらしいが、よくわからず、行くのを断念した。
写真5:同上、石室開口部
写真6:石室内部に石仏が祀られていた。壁面に「大日堂」と刻されているとのことで、大日如来だろうか。古墳の、後世の再利用と思われる。
写真7:「佐都ヶ岩屋古墳(平沢古墳群1号墳)」。つくば市指定史跡。
写真8:同上、石室開口部
写真9:同上、
写真10:同上、石室内部。奥が明るいのは、天井板が無くなって太陽光が差し込んでいるため。