神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

戸頭神社(茨城県取手市)

2021-10-02 23:31:27 | 神社
戸頭神社(とがしらじんじゃ)。
場所:茨城県取手市戸頭1629。茨城県道47号線(守谷流山線)「新大利根橋北」交差点から通称「常総ふれあい道路」を東へ約700mで右折(南へ。ドラッグストア「ウエルシア 取手戸頭2号店」の西側の道路に入る。)、約200m進んで突き当たりを左折(東へ)、約80mで「永蔵寺 薬師堂」がある。そこを右折(南へ)して約120m。駐車場なし(鳥居前に多少の駐車スペースがある。南に少し下ると「花輪スポーツ公園」があり、駐車場がある。)。
創建年代は不詳だが、観応3年(1352)年、領主であった将軍・足利尊氏が、戸頭郷を下総国一宮「香取神宮」に寄進して祭祀料としたとされる。元は「香取神社」で、明治45年に村内の鹿島・八坂・面足・阿夫利の各神社を合併し、「戸頭神社」と改称した。現在の主祭神は、経津主神。
なお、当地「戸頭」には、近世、現・利根川の対岸である現・千葉県柏市布施との間に「七里ヶ渡し」という渡船があった。概ね国道6号線となった水戸街道やJR常磐線は、柏市からは千葉県我孫子市を経由して取手市に進むが、柏市から単純に北東に進む道もあって、水戸街道の脇往来とされていた(ただし、取手宿が寂れるのを嫌って、江戸幕府からは公認されていなかった。)。利根川は、元は東京湾を河口としていたが、江戸の町を水害から防ぐため、江戸時代初期に東遷の工事を行い、太平洋を河口としたことはよく知られている。では、その工事前は、というと、「藺沼(いぬま)」(「藺」は、藺草(イグサ)に因むものと思われる。)という東西に細長くて広い湖沼があったらしい。そこで、江戸時代以前にも、舟で渡るルートがあったのではないか、といわれている。なお、当神社は、元は現在地より西にあり、「新大利根橋」が建設されるときに敷地を売却し、昭和54年、現在地に遷座している。このように、当地は、古くから交通の要衝でもあったことになる。また、当地には「御所車」、「西御門」、「御街道」、「館ノ越」、「宮の前」などといった地名があるという。以上のようなことを踏まえて、平将門の研究家・赤城宗徳氏(元衆議院議員、現・茨城県筑西市出身)は、「戸頭」地区に将門の母(縣犬養春枝の娘)の実家があった、としているが、あくまでも推測の域を出ないように思われる(なお、「相馬惣代八幡宮」(前項)参照。)。

光燿山 等覚院 永蔵寺(こうようさん とうがくいん えいぞうじ)。
場所:茨城県取手市戸頭1438。
寺伝によれば、応和年間(961~964年)、延昌(慈念僧正。第15世天台座主)によって開山されたという。元は、現・茨城県守谷市の「西林寺」(2021年7月24日記事)の隠居寺で、盛時には48ヵ寺の門末と20石の朱印地を有した大寺院であったが、檀家がなかったため、明治時代に入り衰退して廃寺となった。現在では「薬師堂」のみが残る(なお、境内に「新四国相馬霊場八十八ヵ所」第34番と第45番の札所(弘法大師堂)がある。)。


写真1:「戸頭神社」鳥居


写真2:鳥居を潜って直ぐ右手に、境内社「天満宮」


写真3:「戸頭神社」拝殿


写真4:同上、本殿


写真5:同上、境内の石祠


写真6:同上、青面金剛石像など


写真7:同上、鳥居前の「道路元標 稲戸井村」。市町村名が上に刻されていることが標準仕様で、逆になっているのは珍しいらしい。何故ここにあるかというと、かつて、ここに稲戸井村役場があったから、とのこと。因みに、当神社の裏手にマンションが建っているが、これが旧・戸頭小学校(昭和35年廃校)の跡地という。


写真8:「戸頭神社」前から直ぐ南にある案内柱(コンクリート製?)。この写真では見えにくいが、利根川の方を指して「戸頭渡船場ヲ経テ千葉縣ニ至ル・・・」とある。


写真9:「永蔵寺 薬師堂」境内入口。大きな欅(ケヤキ)の木がある(幹周約4.9m)。


写真10:同上、薬師堂。中央に階段がないのは「西林寺」と同じ。なお、珍しい寺紋は、天台宗の古い宗紋で、「三諦紋(さんだいもん)」というらしい。
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