神が宿るところ

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仏島山古墳

2021-10-23 23:03:42 | 古墳
仏島山古墳(ぶっとうさんこふん)。大日山古墳群第3号墳。
場所:茨城県取手市岡926。「親王山 延命寺」(前項)入口から茨城県道251号線(守谷藤代線)を東~北東へ約160m、水路に架かる橋の手前の十字路を右折(南東へ)、約110m進んで、右折(南西へ。水路と反対方向)、約40m進み、カーブミラーのあるところで左折(南東へ)、道なりに160m。駐車場なし。なお、古墳付近で行き止まりになるので、注意。
「仏島山古墳」は岡台地の先端(北東)の麓にある円墳で、周辺に5基あった(うち3基は湮滅)「大日山古墳群」の第3号墳の通称である。元は約30mの円墳で、相当な高さがあり、周濠が巡らされていたとされる。中世には、墳丘上に仏像や石塔等が建立されて「仏島山」との名がついた。かつて一帯は草木が生い茂り、「岡不知(おかしらず)」と呼ばれ、地元の人々も迷うほどの場所だったという。平将門の墓、あるいは将門軍の武器を埋めたところとの伝承があり、地面を踏むと(反響して)音がする、あるいは、草木が異様に茂るのは武器の金気(かなけ)のせいである、ともいわれていたらしい。なお、「親王山 地蔵院 延命寺」(前項)の創建に係る、将門の墓とされる「塚」がこれだろうとされる。
しかし、明治28年に学校敷地造成のため、また昭和8年に小貝川の「岡堰」改良工事のために土取りがされ、このとき、それぞれ骨片・刀剣・曲玉等、円形埴輪等が出土している。後者の工事の時には、この古墳が完全に破壊される寸前で地元民が「将門の墓である」として反対運動を行い、原形を殆ど留めないながらも残ることになった(その経緯を記した石碑が古墳中央に建てられている。)。なお、築造時期は6世紀頃と推定されており、もちろん、将門の時代のものではないということになる。


写真1:「仏島山古墳」。東側(写真手前)が参道のようになっているが、入口側? は水路で隔てられていて、こちらから入れない。


写真2:東側正面は木の葉が茂っている。


写真3:古墳中央に石祠(「将門神社」)と石碑(「仏島山之記碑」)


写真4:「舟形地蔵と野仏」。古墳の北西、約25m(直線距離)にある。船形地蔵は舟形後背249cm・立像170cm。野仏は光背78cm、坐像55cmで、「延命寺法印順海」の名があり、ここも「延命寺」の支配地であったとみられている。


写真5:「岡台地と平将門」説明柱。古墳の北西、約110m(直線距離)にある。なお、後ろに見える墓地は現・取手市山王の「仏島山 華蔵院 金仙寺」の奥之院で、寺院は元は取手市岡にあったが、火災に遭い、寛永5年(1628年)に移転したとのこと。 「取手市史」では、「延命寺」創建のとき、覚鑁上人が泊った草庵が「金仙寺」の前身ではないかとしている。
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