頼政神社(よりまさじんじゃ)。通称:正一位頼政大明神。
場所:茨城県古河市錦町9-4。茨城県道9号線(佐野古河線)「三国橋」交差点から北~東へ約350m進んで右折(南へ。「頼政神社参道」という石柱がある。)、狭い道路を約35m。駐車場なし。なお、当神社前を通り過ぎて、道なりに右方向に回り込んでいく(南~西~北へ)と「古河公園」という小さな公園があり、そこに駐車スペースがある。または、「三国橋」から北へ約130mのところから土手下に下りる道路があり、そこからも「古河公園」に行ける。
伝承によれば、治承4年(1180年)、源頼政が京都宇治「平等院」での戦いに敗れて自刃、従者が頼政の首を笈に入れて逃れたところ、下総国葛飾郡古河の立崎というところで笈が急に重くなったため、その地に塚を築いて祀ったのが始まりという。その従者の名は明確ではないが、「下河辺三郎行吉(または行義)」ともされ、最初に祀ったのは平安時代末期~鎌倉時代初期に当地を支配した下河辺氏といわれている。その後、古河城が築かれると、立崎郭(龍崎郭、頼政郭ともいう。)に組み込まれ、古河城の鎮護社として城主から崇敬されるようになった。ただし、神社としての創建については、江戸時代の延宝5年(1677年)、古河城主・土井利益が城内鎮護の神としたことを起源とする説があるほか、元禄9年(1696年)に初代古河藩主・松平信輝が古河城内に遠祖・源頼政が祀られていることを知り、神社として整備したことを起源とする説もある。なお、上野国高崎城(現・群馬県高崎市)内の「頼政神社」は、松平信輝の弟・輝貞が自らの居城である上野国高崎城(現・群馬県高崎市)の鎮護社として当神社の分霊を勧請したものとされる。明治時代に入ると、古河城は廃城になったが、当神社は残され、明治20年に村社に列した。大正元年、渡良瀬川の河川改修工事により、現在地である旧・古河城北西端の観音寺郭の土塁上に遷座した。河川改修工事の際、社殿のあった場所は削平されたが、社殿下からは何も出ず、その南西約4mのところから石棺が発見され、人骨・金環・管玉等が出土した。これらは明らかに古墳時代のものだったが、更に少し南側で朝鮮高麗青磁の壺や板碑などが出土し、これらは中世のものだった。板碑は「東京国立博物館」(東京都台東区上野)に納められたが、古墳出土物は当神社の社宝となり、壺は現社殿の下に埋納されたという。現在の祭神は、源三位頼政。
参考:源頼政の孫・顕綱の後裔は大河内氏を名乗って室町時代に三河国・吉良家の家老となり、戦国時代に吉良家が没落すると、徳川家の家臣となった。天正15年(1587年)、当主・正綱が徳川家康の命により長沢松平家分家である松平正次の養子となり、以後、松平姓を名乗った。正綱の甥で養子となった松平信綱の孫が松平信輝に当たる。ということで、家系図上、松平信輝の遠祖は源頼政ということになる。
蛇足:古河市側では、龍ケ崎市の地名の由来について、同地を支配した下河辺氏の一族が当神社の鎮座地であった立崎(たつさき)郭から名を採って、龍崎氏を名乗ったことによるとしている。一方、龍ケ崎市側では、諸説あるとする中の1つとして龍崎氏(読み方は「りゅうさき」か「りゅうがさき」か不明。)に因むとする説も挙げているものの、地名の方が先とする説もあるとしている(龍ケ崎市のHPによる。)。
写真1:「頼政神社」参道入口。
写真2:境内入口の石段。この石段の向かって左側が宮司さん宅(御朱印あり。)。
写真3:一の鳥居
写真4:どっしりとした石灯籠。高崎藩主・松平輝貞が寄進した大燈籠で、手水鉢や狛犬などとともに古河市指定文化財(歴史資料)。
写真5:二の鳥居
写真6:狛犬(吽形)
写真7:社殿
写真8:境内社「水神宮」。「頼政神社」(社殿は東向き)の向かって左に鎮座し、社殿は南向き。
写真9:「水神宮」に向かう石段。「古河公園」側にある。扁額は「水神宮 大杉神社 舩玉神社」
場所:茨城県古河市錦町9-4。茨城県道9号線(佐野古河線)「三国橋」交差点から北~東へ約350m進んで右折(南へ。「頼政神社参道」という石柱がある。)、狭い道路を約35m。駐車場なし。なお、当神社前を通り過ぎて、道なりに右方向に回り込んでいく(南~西~北へ)と「古河公園」という小さな公園があり、そこに駐車スペースがある。または、「三国橋」から北へ約130mのところから土手下に下りる道路があり、そこからも「古河公園」に行ける。
伝承によれば、治承4年(1180年)、源頼政が京都宇治「平等院」での戦いに敗れて自刃、従者が頼政の首を笈に入れて逃れたところ、下総国葛飾郡古河の立崎というところで笈が急に重くなったため、その地に塚を築いて祀ったのが始まりという。その従者の名は明確ではないが、「下河辺三郎行吉(または行義)」ともされ、最初に祀ったのは平安時代末期~鎌倉時代初期に当地を支配した下河辺氏といわれている。その後、古河城が築かれると、立崎郭(龍崎郭、頼政郭ともいう。)に組み込まれ、古河城の鎮護社として城主から崇敬されるようになった。ただし、神社としての創建については、江戸時代の延宝5年(1677年)、古河城主・土井利益が城内鎮護の神としたことを起源とする説があるほか、元禄9年(1696年)に初代古河藩主・松平信輝が古河城内に遠祖・源頼政が祀られていることを知り、神社として整備したことを起源とする説もある。なお、上野国高崎城(現・群馬県高崎市)内の「頼政神社」は、松平信輝の弟・輝貞が自らの居城である上野国高崎城(現・群馬県高崎市)の鎮護社として当神社の分霊を勧請したものとされる。明治時代に入ると、古河城は廃城になったが、当神社は残され、明治20年に村社に列した。大正元年、渡良瀬川の河川改修工事により、現在地である旧・古河城北西端の観音寺郭の土塁上に遷座した。河川改修工事の際、社殿のあった場所は削平されたが、社殿下からは何も出ず、その南西約4mのところから石棺が発見され、人骨・金環・管玉等が出土した。これらは明らかに古墳時代のものだったが、更に少し南側で朝鮮高麗青磁の壺や板碑などが出土し、これらは中世のものだった。板碑は「東京国立博物館」(東京都台東区上野)に納められたが、古墳出土物は当神社の社宝となり、壺は現社殿の下に埋納されたという。現在の祭神は、源三位頼政。
参考:源頼政の孫・顕綱の後裔は大河内氏を名乗って室町時代に三河国・吉良家の家老となり、戦国時代に吉良家が没落すると、徳川家の家臣となった。天正15年(1587年)、当主・正綱が徳川家康の命により長沢松平家分家である松平正次の養子となり、以後、松平姓を名乗った。正綱の甥で養子となった松平信綱の孫が松平信輝に当たる。ということで、家系図上、松平信輝の遠祖は源頼政ということになる。
蛇足:古河市側では、龍ケ崎市の地名の由来について、同地を支配した下河辺氏の一族が当神社の鎮座地であった立崎(たつさき)郭から名を採って、龍崎氏を名乗ったことによるとしている。一方、龍ケ崎市側では、諸説あるとする中の1つとして龍崎氏(読み方は「りゅうさき」か「りゅうがさき」か不明。)に因むとする説も挙げているものの、地名の方が先とする説もあるとしている(龍ケ崎市のHPによる。)。
写真1:「頼政神社」参道入口。
写真2:境内入口の石段。この石段の向かって左側が宮司さん宅(御朱印あり。)。
写真3:一の鳥居
写真4:どっしりとした石灯籠。高崎藩主・松平輝貞が寄進した大燈籠で、手水鉢や狛犬などとともに古河市指定文化財(歴史資料)。
写真5:二の鳥居
写真6:狛犬(吽形)
写真7:社殿
写真8:境内社「水神宮」。「頼政神社」(社殿は東向き)の向かって左に鎮座し、社殿は南向き。
写真9:「水神宮」に向かう石段。「古河公園」側にある。扁額は「水神宮 大杉神社 舩玉神社」