神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

雀神社(茨城県古河市)

2022-01-15 23:35:11 | 神社
雀神社(すずめじんじゃ)。通称:お雀様、正一位雀大明神。。
場所:茨城県古河市宮前町4-52。国道354号線「三国橋」交差点から茨城県道9号線(佐野古河線)を北~東へ約400m進んで左折(北へ)、約500mで鳥居前に着く。駐車場は、その少し先から境内に入る。
社伝によれば、第10代・崇神天皇の御代(3世紀後半?)に、その皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が東国鎮護のために創建したという。また、一説に、貞観元年(859年)に出雲国一宮「出雲大社」から勧請したものとされる。「雀神社」という名は、元は「鎮社(しずめのやしろ)」といったのが訛ったとされるが、鎮座地を「雀が原」といったことによるとか、源三位源頼政(「頼政神社」(前項)の祭神)の娘・雀姫が亡くなったときに幾万もの雀が集まって悲しみ、その霊を祀るため創建されたから(別当寺であった「真竜山 心誠院 神宮寺」(現・古河市横山町)の縁起による。)とかいう説もあるが、流石に雀姫の方は信じ難い。古河地方の総鎮守として崇敬を集め、平安時代末期~鎌倉時代初期に築かれたのが最初とされる「古河城」の歴代城主に篤く庇護され、室町時代には初代古河公方・足利成氏が当神社に「天下泰平 国土安穏」を祈願した。以来、この8文字を記すのは当神社の祭礼の万灯のみに許されたという。慶長5年(1600年)、徳川家康が会津征伐のため下野国小山まで進んだ時、石田三成の挙兵を聞いて古河に引き返し、当神社に戦勝を祈願をした。江戸時代を通じて幕府から朱印地15石が与えられ、現在の社殿は慶長10年(1605年)に古河藩主・松平康長が造営した。当神社例祭の際には、古河宿二丁目・高札場付近にお仮屋が建てられるため、町の東側に「祭礼道」という日光街道の迂回路を設けて、大名も含め旅行者にはそちらを通らせた(明治12年、米国元大統領(第18代)・グラントが観光のため「日光東照宮」を訪れた際には、お仮屋の方を街道から離れたところに移動し、一行を通過させたことから、以来「祭礼道」は廃止されたという。)。明治5年には猿島郡・西葛飾郡の郷社に指定されたが、昭和28年の渡良瀬川改修工事により境内地が縮小され、社殿も東に約50m移動した。現在の主祭神は大己貴命で、少彦名命と事代主命を配祀する。
蛇足:現・古河市は渡良瀬川左岸(東岸)にあり、南部で渡良瀬川が利根川と合流する。旧律令国制では、下総国に属し、常陸国・下野国・武蔵国と国境を接していた。「萬葉集」では「許我(こが)」と表記されて、2首採用されているが、いずれも渡良瀬川の渡しの情景を詠んだもので、奈良時代から水上交通の要衝だったことが窺われる。室町時代後期~戦国時代には古河公方の本拠地となり、江戸時代には古河城が将軍家の日光社参の宿城となるなど、城下町・宿場町としても栄えた。「萬葉集」2首の歌碑の1基は当神社脇の渡良瀬川土手に、もう1基はJR「古河」駅前ロータリーにある。


写真1:「雀神社」境内入口。この写真ではわかりにくいが、向かって左の欅(ケヤキ)の巨木は古河市内最高とされる(樹高約25m、根本周囲約18m、目道り周囲約8.8m。2本の木が重なりあっているため「夫婦欅」の別称があり、古河市指定天然記念物。)。また、社号標?は「西葛飾郡 猿島郡 郷社」。猿島郡で唯一の郷社であったという。


写真2:一の鳥居。扁額は「正一位雀大明神」


写真3:陶製の狛犬。表情が良い。


写真4:二の鳥居。こちらも扁額は「正一位雀大明神」


写真5:拝殿


写真6:本殿。社殿は古河市指定有形文化財


写真7:一の鳥居を潜って直進すると渡良瀬川の土手に出るが、そこに古河市に2基ある万葉歌碑の1つがある。
古河の古名である「許我」を詠み込んだ歌「真久良我の 許我の渡の 韓楫の 音高しもな 寝なへ児ゆゑに」(巻14ー3555)


写真8:もう1つの万葉歌碑はJR「古河」駅前ロータリーにある。「逢はずして 行かば惜しけむ 真久良我の 許我漕ぐ船に 君も逢はぬかも」(巻14-3558)
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