頼政神社(よりまさじんじゃ)。通称:頼政さま。
場所:茨城県龍ケ崎市寺後4072。茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)「市役所前」交差点の1つ東の交差点(コンビニ「ミニストップ龍ヶ崎寺後店」がある。)を右折(南西へ)、約60mのところから狭い路地を南に約70m進む。この路地には自動車は入れない。駐車場なし(龍ケ崎市役所の駐車場が利用可能と思われる。徒歩約5分)。
源三位入道・源頼政(1104~1180年)は、平安時代末期の武将・歌人で、平氏が政権を独占する中で源氏の長老として公卿に上ったが、平氏を打倒しようとした以仁王の挙兵に味方して敗れ、治承4年(1180年)に自害して亡くなった。軍記物語「平家物語」によれば、第76代・近衛天皇を悩ませた「鵺(ぬえ)」(頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という怪物)を弓矢で退治したという伝説がある。このように、武芸にも秀でていたが、当時としては異例な従三位にまで上ったというのは、歌人としての名声が高かったことによるといわれている。最期は、京都の宇治「平等院」(現・京都府宇治市)での戦いに敗れて自刃したため、墓は「平等院 鳳凰堂」の裏手(北西側)の塔頭「最勝院」境内にある。ただし、頼政の首は郎党らが運び去ったとの伝承があり、それを葬ったとされる頼政の墓(首塚)が現・京都府亀岡市、岐阜県関市、千葉県印西市などにも存在する(印西市のものについては「晴天山 西光院 結縁寺」(2013年9月7日記事)参照)。そして、関東には頼政を祭神とする「頼政神社」が数ヵ所あり、このうち現・茨城県古河市と龍ケ崎市のそれには、頼政の首塚の伝説が残っている。
龍ケ崎市の「頼政神社」は、伝承によれば、頼政が自害したとき、家臣・下河辺行吉がその首を持って東国に落ち延び、首桶が重くなって動かなくなった場所が当地であり、それが創祀とされる。下河辺行吉(行義)は、現・茨城県古河市を中心とした皇族領有の荘園である下総国下河辺荘の庄司(荘官)として実質的に下河辺荘を支配したとされ、その子・下河辺政義は源頼朝に仕えて常陸国南郡の地頭職を任されたという。下河辺政義が現・龍ケ崎市周辺の最初の開発領主とされており、現・「竜ヶ崎第二高校」のある台地上に「龍ヶ崎城」を築いたという伝承がある(一般には、永禄11年(1568年)に江戸崎城主・土岐治英の二男・胤倫が築城して居城としたとされている。)。このようなことから、当神社は、鎌倉時代に下河辺氏(後の龍崎氏)が一族の守護神として創建したものとみられている。なお、宇治「平等院」の戦いにおいて、源頼政とともに子の仲綱も自害しており、ここに葬られたのは仲綱の首とする説もある。現在の祭神は源頼政。
現在は周りが駐車場となっており、「神社」といっても狭いフェンスに囲まれた小さな石祠しかないが、それが逆に、如何にも「首塚」のようではある。ただし、かつては水田の中に小さな塚があり、そこに明治初期までは立派な社殿もあったといわれ、歌人などが盛んに参拝にきていたとのこと。
因みに、当神社から南東へ少し行ったところに「渋栗卵塔(しぶくりらんとう)」と呼ばれる墓地がある。妙な名前だが、「渋栗」は「下河辺」が訛ったもので、下河辺氏一族の墓所だったとの伝承があるという。
写真1:「頼政神社」に至る狭い路地の入口。
写真2:同上、参道
写真3:同上、社号標?
写真4:同上、石祠。「頼政神社」と刻されている。
写真5:同上、南側の道路から見る。
写真6:南側の道路は「頼政通り」と名付けられている。
写真7:「渋栗卵塔」入口(「頼政通り」を南東へ約150m、「松井建材店」裏の西側)
写真8:同上。現在は、卵型をした「卵塔」は1基もない。
場所:茨城県龍ケ崎市寺後4072。茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)「市役所前」交差点の1つ東の交差点(コンビニ「ミニストップ龍ヶ崎寺後店」がある。)を右折(南西へ)、約60mのところから狭い路地を南に約70m進む。この路地には自動車は入れない。駐車場なし(龍ケ崎市役所の駐車場が利用可能と思われる。徒歩約5分)。
源三位入道・源頼政(1104~1180年)は、平安時代末期の武将・歌人で、平氏が政権を独占する中で源氏の長老として公卿に上ったが、平氏を打倒しようとした以仁王の挙兵に味方して敗れ、治承4年(1180年)に自害して亡くなった。軍記物語「平家物語」によれば、第76代・近衛天皇を悩ませた「鵺(ぬえ)」(頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇という怪物)を弓矢で退治したという伝説がある。このように、武芸にも秀でていたが、当時としては異例な従三位にまで上ったというのは、歌人としての名声が高かったことによるといわれている。最期は、京都の宇治「平等院」(現・京都府宇治市)での戦いに敗れて自刃したため、墓は「平等院 鳳凰堂」の裏手(北西側)の塔頭「最勝院」境内にある。ただし、頼政の首は郎党らが運び去ったとの伝承があり、それを葬ったとされる頼政の墓(首塚)が現・京都府亀岡市、岐阜県関市、千葉県印西市などにも存在する(印西市のものについては「晴天山 西光院 結縁寺」(2013年9月7日記事)参照)。そして、関東には頼政を祭神とする「頼政神社」が数ヵ所あり、このうち現・茨城県古河市と龍ケ崎市のそれには、頼政の首塚の伝説が残っている。
龍ケ崎市の「頼政神社」は、伝承によれば、頼政が自害したとき、家臣・下河辺行吉がその首を持って東国に落ち延び、首桶が重くなって動かなくなった場所が当地であり、それが創祀とされる。下河辺行吉(行義)は、現・茨城県古河市を中心とした皇族領有の荘園である下総国下河辺荘の庄司(荘官)として実質的に下河辺荘を支配したとされ、その子・下河辺政義は源頼朝に仕えて常陸国南郡の地頭職を任されたという。下河辺政義が現・龍ケ崎市周辺の最初の開発領主とされており、現・「竜ヶ崎第二高校」のある台地上に「龍ヶ崎城」を築いたという伝承がある(一般には、永禄11年(1568年)に江戸崎城主・土岐治英の二男・胤倫が築城して居城としたとされている。)。このようなことから、当神社は、鎌倉時代に下河辺氏(後の龍崎氏)が一族の守護神として創建したものとみられている。なお、宇治「平等院」の戦いにおいて、源頼政とともに子の仲綱も自害しており、ここに葬られたのは仲綱の首とする説もある。現在の祭神は源頼政。
現在は周りが駐車場となっており、「神社」といっても狭いフェンスに囲まれた小さな石祠しかないが、それが逆に、如何にも「首塚」のようではある。ただし、かつては水田の中に小さな塚があり、そこに明治初期までは立派な社殿もあったといわれ、歌人などが盛んに参拝にきていたとのこと。
因みに、当神社から南東へ少し行ったところに「渋栗卵塔(しぶくりらんとう)」と呼ばれる墓地がある。妙な名前だが、「渋栗」は「下河辺」が訛ったもので、下河辺氏一族の墓所だったとの伝承があるという。
写真1:「頼政神社」に至る狭い路地の入口。
写真2:同上、参道
写真3:同上、社号標?
写真4:同上、石祠。「頼政神社」と刻されている。
写真5:同上、南側の道路から見る。
写真6:南側の道路は「頼政通り」と名付けられている。
写真7:「渋栗卵塔」入口(「頼政通り」を南東へ約150m、「松井建材店」裏の西側)
写真8:同上。現在は、卵型をした「卵塔」は1基もない。