当ブログでは過去に、駿河国と下総国の古代東海道に関連するシリーズ記事を書いた。常陸国についても書こうと思うのだが、常陸国には他国とはちょっと違った事情がある。例えば、①他国では、史料的な制約で、「延喜式」(平安時代中期)に記載された駅家を繋ぐルートを「古代東海道」としているが、「常陸国風土記」(奈良時代初期)には「延喜式」とは異なる駅家についての記載があり、それぞれが編纂された時期によってルート変更があったらしいこと、②古代には所謂「香取海」という巨大な内海が現・茨城県南部に広がっており、陸地も低湿地が多かったなど、現在の地形と大きく異なっていたとみられること、③古代東海道は国府と国府を結ぶものではなく、(連絡路はあったとしても)国府(国庁)や郡家を素通りするルートを通っていることが多いが、常陸国では、その国府(現・茨城県石岡市、「常陸国府跡」(2018年1月6日記事)参照)が終点であったこと、などがあげられる。
ということで、具体的には、「常陸国風土記」信太郡の条に「榎浦の津(港)がある。ここに駅家が置かれている。東海道の本道で、常陸国の入口である。このため、伝駅使(はゆまつかい)らが初めてこの国に入ろうとするときに、まず口を漱ぎ、手を洗って、東を向いて香島大神(常陸国一宮「鹿島神宮」)を拝してから入るのである。」(現代語訳)という記述がある。一方、「延喜式」には「榎浦津」駅家の記載は無く、常陸国最初の駅家は「榛谷」となっている。いずれも遺称地は無く、その比定地には諸説ある。厳密にいえば「常陸国風土記」では駅家自体の名は記載されていないので、通称「榎浦津」駅と「榛谷」駅が同じ場所なのか、別なのか、これも説が分かれている。とりあえず、ここでは「延喜式」記載のルートとされるものを考える(「榎浦津」駅については別項で書く予定。)。
「延喜式」所載の下総国最後の駅家「於賦(おふ)」(2013年7月27日記事参照)比定地も未確定だが、現・茨城県利根町布川(利根町役場付近)という説が有力で、そこから北東~北へ向かって直線的な現・茨城県道4号線(千葉竜ケ崎線)が走っているのをみると、かなり納得できる説と思う。因みに、県道の東(現・利根町立木)に下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)があり、県道沿い(龍ケ崎南高校前)に日本武尊所縁の「弟橘媛の櫛塚」(2013年8月3日記事)がある。問題はその後で、古代官道の研究家・木下良氏(國學院大學教授など)によれば、「延喜式」写本の1つである九條家本に傍注があり、「榛谷」を古くは「坂田」とも書いたらしいので、これを「はんた」と読むならば、「榛谷」を「はんたに」と読んで(なお、「榛」は植物のハシバミ、またはハンノキを指す。「榛谷」の通常の読み方は「はりがや」又は「はんがい」だろうか。)、現・茨城県龍ケ崎市半田町(はんだまち)に比定する。そのため、県道4号線が関東鉄道竜ヶ崎線「竜ヶ崎」駅付近に突き当たるところで、東に向きを変えて進むと想定している(因みに、関東鉄道竜ケ崎線が下総国と常陸国の境界線に近い。)。「竜ヶ崎」駅周辺は龍ケ崎市の中心市街地で、古代とは地形も変わっているだろうから、どの辺りを通ったか不明だが、少し東に進んで茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)に入ると、途中で、「稲敷郡」の名の由来となったといわれる「稲塚古墳」(2020年10月24日記事)の前を通る。「稲塚古墳」が「常陸国風土記」信太郡の条にある「飯名神社」所在地であるとすれば、現・半田町も(古代)信太郡域にあったことになるだろう。平安時代中期の「和名類聚抄」では信太郡14郷のうちに「駅家郷」があるとしている。「駅家郷」の比定地は未確定だが、「和名類聚抄」と「延喜式」は成立時期が近いので、平安時代の古代東海道のルートでも信太郡内に駅家があり、それが現・半田町付近でもおかしくはないことになる。
ただし、そもそも、何故「竜ヶ崎」駅付近で方向を変えるのか、現・石岡市に向かうなら単純にそのまま北上すれば良いのではないかという疑問は残る。地形的な問題か、あるいは、平安時代中期になると、律令制維持が難しくなってきて、新たな道路を伸ばすことができなかったのかもしれない。通説では、「榛谷」駅家(現・半田町)から北東に向かい、現・茨城県稲敷市下君山から稲敷郡阿見町竹来付近に通じていた奈良時代の古代東海道に接続し、その道路を利用して現・阿見町を経て現・土浦市~石岡市方面に向かったと考えられている。どこで接続していたかは諸説あるが、現・稲敷市下君山の東側から現・牛久市奥原町の北端辺りまでの間とみられる。現・下君山には「下君山廃寺跡」遺跡があり、現・奥原町の古代集落跡「姥神遺跡」からは貴族しか使わないような「宝珠硯」(牛久市指定文化財)や多くの墨書土器が出土していることから、古代東海道との関連が指摘されている。
確かに、現在コンビニ「セブンイレブン龍ヶ崎半田町店」のある辺りが丘の下で(駅家としては丘の上よりも水などが得やすい丘の下辺りの平地の方が良い。)、ちょうど方向転換の屈曲点でもあるのが、駅家としての立地上、適当な感じはする。そして、北東へ向かい、現在、乙戸川と小野川が合流する辺りを渡って、現・牛久市奥原町を進んで、奥原町の北端辺りで奈良時代の東海道に接続したのではないかと思う。確たる根拠は無いのだが、奥原町に入ったところに「鹿嶋大神宮」が鎮座している。他国では、国土開発の神は大国主神が多いが、常陸国では鹿島神(武甕槌神:タケミカヅチ)であることも多い。古代官道の守護神であってもおかしくはない。
牛久市のHPから(姥神遺跡)
写真1:東西に走る茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)と南北に走る同68号線(美浦栄線)の「半田町」交差点。南東角から北西角を見る。写真の左手側(西)が龍ケ崎市市街地方面、正面やや右手奥が阿見町方面(北)になる。正面に見える丘(比高約20m)が「満願寺」のある「登城山城館跡」という中世城館の址。県道5号線は北東方向に進んできたが、この交差点を過ぎると南東方向に向かうので、これ以上進むとかなり遠回りになるだろう。
写真2:天台宗「満願寺」入口(場所:龍ケ崎市半田町993)
写真3:同上、本堂。南北朝時代の延元2年(1337年)創建という。
写真4:「鹿嶋大神宮」鳥居(場所:牛久市奥原町2222。)
写真5:同上、参道
写真6:同上、石段。かなり急な登りになる。
写真7:同上、社殿。大同元年(806年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請して創建されたという。祭神:武甕槌命。なお、茨城県神社庁のHPでは「鹿島神社」となっている。
ということで、具体的には、「常陸国風土記」信太郡の条に「榎浦の津(港)がある。ここに駅家が置かれている。東海道の本道で、常陸国の入口である。このため、伝駅使(はゆまつかい)らが初めてこの国に入ろうとするときに、まず口を漱ぎ、手を洗って、東を向いて香島大神(常陸国一宮「鹿島神宮」)を拝してから入るのである。」(現代語訳)という記述がある。一方、「延喜式」には「榎浦津」駅家の記載は無く、常陸国最初の駅家は「榛谷」となっている。いずれも遺称地は無く、その比定地には諸説ある。厳密にいえば「常陸国風土記」では駅家自体の名は記載されていないので、通称「榎浦津」駅と「榛谷」駅が同じ場所なのか、別なのか、これも説が分かれている。とりあえず、ここでは「延喜式」記載のルートとされるものを考える(「榎浦津」駅については別項で書く予定。)。
「延喜式」所載の下総国最後の駅家「於賦(おふ)」(2013年7月27日記事参照)比定地も未確定だが、現・茨城県利根町布川(利根町役場付近)という説が有力で、そこから北東~北へ向かって直線的な現・茨城県道4号線(千葉竜ケ崎線)が走っているのをみると、かなり納得できる説と思う。因みに、県道の東(現・利根町立木)に下総国式内社「蛟蝄神社」(2013年1月5日記事)があり、県道沿い(龍ケ崎南高校前)に日本武尊所縁の「弟橘媛の櫛塚」(2013年8月3日記事)がある。問題はその後で、古代官道の研究家・木下良氏(國學院大學教授など)によれば、「延喜式」写本の1つである九條家本に傍注があり、「榛谷」を古くは「坂田」とも書いたらしいので、これを「はんた」と読むならば、「榛谷」を「はんたに」と読んで(なお、「榛」は植物のハシバミ、またはハンノキを指す。「榛谷」の通常の読み方は「はりがや」又は「はんがい」だろうか。)、現・茨城県龍ケ崎市半田町(はんだまち)に比定する。そのため、県道4号線が関東鉄道竜ヶ崎線「竜ヶ崎」駅付近に突き当たるところで、東に向きを変えて進むと想定している(因みに、関東鉄道竜ケ崎線が下総国と常陸国の境界線に近い。)。「竜ヶ崎」駅周辺は龍ケ崎市の中心市街地で、古代とは地形も変わっているだろうから、どの辺りを通ったか不明だが、少し東に進んで茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)に入ると、途中で、「稲敷郡」の名の由来となったといわれる「稲塚古墳」(2020年10月24日記事)の前を通る。「稲塚古墳」が「常陸国風土記」信太郡の条にある「飯名神社」所在地であるとすれば、現・半田町も(古代)信太郡域にあったことになるだろう。平安時代中期の「和名類聚抄」では信太郡14郷のうちに「駅家郷」があるとしている。「駅家郷」の比定地は未確定だが、「和名類聚抄」と「延喜式」は成立時期が近いので、平安時代の古代東海道のルートでも信太郡内に駅家があり、それが現・半田町付近でもおかしくはないことになる。
ただし、そもそも、何故「竜ヶ崎」駅付近で方向を変えるのか、現・石岡市に向かうなら単純にそのまま北上すれば良いのではないかという疑問は残る。地形的な問題か、あるいは、平安時代中期になると、律令制維持が難しくなってきて、新たな道路を伸ばすことができなかったのかもしれない。通説では、「榛谷」駅家(現・半田町)から北東に向かい、現・茨城県稲敷市下君山から稲敷郡阿見町竹来付近に通じていた奈良時代の古代東海道に接続し、その道路を利用して現・阿見町を経て現・土浦市~石岡市方面に向かったと考えられている。どこで接続していたかは諸説あるが、現・稲敷市下君山の東側から現・牛久市奥原町の北端辺りまでの間とみられる。現・下君山には「下君山廃寺跡」遺跡があり、現・奥原町の古代集落跡「姥神遺跡」からは貴族しか使わないような「宝珠硯」(牛久市指定文化財)や多くの墨書土器が出土していることから、古代東海道との関連が指摘されている。
確かに、現在コンビニ「セブンイレブン龍ヶ崎半田町店」のある辺りが丘の下で(駅家としては丘の上よりも水などが得やすい丘の下辺りの平地の方が良い。)、ちょうど方向転換の屈曲点でもあるのが、駅家としての立地上、適当な感じはする。そして、北東へ向かい、現在、乙戸川と小野川が合流する辺りを渡って、現・牛久市奥原町を進んで、奥原町の北端辺りで奈良時代の東海道に接続したのではないかと思う。確たる根拠は無いのだが、奥原町に入ったところに「鹿嶋大神宮」が鎮座している。他国では、国土開発の神は大国主神が多いが、常陸国では鹿島神(武甕槌神:タケミカヅチ)であることも多い。古代官道の守護神であってもおかしくはない。
牛久市のHPから(姥神遺跡)
写真1:東西に走る茨城県道5号線(竜ケ崎潮来線)と南北に走る同68号線(美浦栄線)の「半田町」交差点。南東角から北西角を見る。写真の左手側(西)が龍ケ崎市市街地方面、正面やや右手奥が阿見町方面(北)になる。正面に見える丘(比高約20m)が「満願寺」のある「登城山城館跡」という中世城館の址。県道5号線は北東方向に進んできたが、この交差点を過ぎると南東方向に向かうので、これ以上進むとかなり遠回りになるだろう。
写真2:天台宗「満願寺」入口(場所:龍ケ崎市半田町993)
写真3:同上、本堂。南北朝時代の延元2年(1337年)創建という。
写真4:「鹿嶋大神宮」鳥居(場所:牛久市奥原町2222。)
写真5:同上、参道
写真6:同上、石段。かなり急な登りになる。
写真7:同上、社殿。大同元年(806年)、常陸国一宮「鹿島神宮」から分霊を勧請して創建されたという。祭神:武甕槌命。なお、茨城県神社庁のHPでは「鹿島神社」となっている。