神が宿るところ

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若常館跡(茨城県行方市)

2023-06-10 23:31:12 | 史跡・文化財
若常館跡(わかづねやかたあと)。別名:若舎人部館跡(わかとねりべやかたあと)。
場所:茨城県行方市捻木524外。捻木の「香取神社」(前項)参道入口から南東へ約240mのところに「万葉歌碑」があり、「若常館跡」はそこから北へ約120m。ただし、「万葉歌碑」から先、奥のお宅の私有地を通らないと行けないらしいので、許可が必要とのこと。駐車場なし。
「若常館跡」は、中世、若舎人氏の居館跡とされるもので、現在の住所は行方市捻木だが、元は「若常」という地名で、「若舎人(わかとねり)」が訛ったものという。「若常館跡」は台地の先端、30~40m四方の方形となっており、字名は「古館」といった。また、その周囲に堀跡があって、「長堀」という字名もあったらしい。土塁などの築造が少ないため、中世より古い形式とも考えられ、これが、「萬葉集」(8世紀後半頃成立)に採録された茨城郡 若舎人部廣足(うばらきぐん わかとねりべのひろたり)の一族の居住地だったのではないかといわれている。そこで、その入口のところに、「萬葉集」に採録された廣足の歌のうち1首、「防人に 立たむ騒きに 家の妹が 業るべきことを 言はず来ぬかも」(現代語訳:防人に出発する慌ただしさで、家の妻に生業(生活のためにすべきこと)について話をしないで来てしまったなぁ)(巻20-4364)を刻した石碑が建てられたという。防人に選ばれた者は武器・食料等を自弁して持参しなければならない上に、兵役期間が終わっても無事に帰れるとは限らず、税の免除も無かったため、壮年男子を徴兵された家族の負担は非常に大きく、そうした心配が表現されたものとされる。なお、廣足の歌は「万葉集」にもう1首、「難波津に 御船下ろ据ゑ 八十楫貫き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ」(現代語訳:難波の港に官船を下ろし、多くの櫓を立てて、もう漕ぎ出したと妻に告げてほしい)(巻20-4363)が採録されている。因みに、「舎人部」というのは、大王(天皇)・貴族の側に仕えて雑役・警衛などで奉仕した人々の集団・組織とされ、「若舎人部」という正式名称はないようだが、おそらく皇子等に奉仕した人々で、廣足もその一員とみられる。雑用などが主な任務とはいえ、貴族らの近くに仕えていたことから、地方にあっては、それなりの地位・教養があったものと思われる。なお、江戸時代中期の国学者・海北若沖(契沖の弟子)の著「万葉集作者履歴」において、廣足を百済国出身の利加志豊王の後裔としているが、その出典は明らかでないようである。
さて、現在、当地(捻木)は現・行方市(旧・行方郡玉造町)に属するが、「萬葉集」では廣足の出身地を「茨城郡」としている。これは、当地が梶無川の右岸(西岸)にあり、「常陸国風土記」行方郡の条で、梶無川が「茨城郡」と「行方郡」の境になっている、という記述と合致する。ただし、平安時代中期頃に編纂された「和名類聚抄」には、「茨城郡」にも「行方郡」にも「若舎人郷」という郷名は見当たらない。当地は、おそらく古代には茨城郡橘(立花)郷内だったと思われる。時代が下って、常陸国一宮「鹿島神宮」に伝わる所謂「鹿島神宮文書」の中に、康永2年(1343年)の日付で「常陸国行方郡若舎人郷内根地木村」という記載のある文書等が存在することから、平安時代末期から中世に至る間に「行方郡」が北西に広がったとみられる。これは、常陸大掾氏の一族や「鹿島神宮」などの領地争いの結果で、ここでは詳細は省くが、中世の若舎人氏は、若舎人部廣足とは血縁的なつながりはなく、その子孫ではないだろうとみられている。常陸大掾氏の支流・行方氏の庶子とする説もあるが、橘郷は治承5年(1181年)に源頼朝から「鹿島神宮」に寄進され、大禰宜・中臣則親の一族が派遣されて橘郷羽生(現・行方市羽生)に館を築いて支配するようになったことから、若舎人氏は、この中臣氏(後に羽生氏を名乗る。)の庶子ではないか、とする説が有力となっている。


写真1:若舎人部廣足の「万葉歌碑」。この右の道路の先(突き当り)に「若常館跡」があるが、私有地を通るというので、行くのは遠慮した。


写真2:同上。この歌碑の前の道路の先(北西)約240mのところに「香取神社」参道入口がある。


写真3:「若常館跡」(竹林のところ)。
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