島広山・石井営所跡(しまひろやま・いわいえいしょあと)。
場所:茨城県坂東市岩井1603。県道20号線(結城坂東線)の「国王神社」入口付近の信号のところを東に入って、約200m。駐車場有り。
「島広山」は江川右岸(西岸)の台地で、ここに平将門の重要な拠点(陣屋・兵営)として「石井営所」があったといわれている。もちろん、将門敗死の後には全ての建物が焼き払われ、今では記念の石碑が置かれているだけである。また、ここに営所があったということ自体も伝承によるものらしく、発掘調査等は殆ど行われていないようである。
「島広山・石井営所跡」を南東に下り、次の交差点を右折(南西へ)すると、直ぐに「石井の井戸」がある。将門が王城の建設地を探して当地を見回っていたとき、喉が渇いて水を求めたところ、1人の老翁が現れ、大きな石を軽々と持ち上げて投げつけた場所から清らかな泉が湧き出した。将門が老翁に名を問うと、「久方の 光の末の 影うつる 岩井を守る 翁なりけり」という歌1首を詠って消えたという。この老翁を祀ったのが「一言神社」で、社伝によれば、創建は承平5年(935年)で、祭神は一言主命。ただし、これらはいずれも伝説に過ぎず、おそらく将門以前から泉自体はあったのだと思われる。現在の地名は「岩井」と書くが、かつては「石井」と書いて「いわい」と訓んでいたようで、古代の「石井郷」に当たると思われている。
さて、先ほどの交差点に戻り、更に南東に進むと、「医王山 金剛院 延命寺(いおうさん こんごういん えんめいじ)」がある。寺伝によれば、創建は文安2年(1445年)で、薬師堂に安置された薬師如来像は行基作といわれ、将門公の護持仏であったとされており、房総平氏の子孫という相馬氏が開創したという。現在は真言宗豊山派に属する寺院となっている。
坂東市のHPから(島広山・石井営所跡)
同(延命寺の薬師如来)
写真1:「島広山・石井営所跡」

写真2:「石井の井戸」跡。今は泉は湧いていないようだ。

写真3:「一言神社」。「石井の井戸」の西側にある。

写真4:「延命寺」山門(場所:坂東市岩井1111。駐車場有り。)

写真5:山門を入ると、池に架かる石橋を渡って、その先に薬師堂がある。これが「島薬師」の由来だろうか。

写真6:同上、薬師堂
場所:茨城県坂東市岩井1603。県道20号線(結城坂東線)の「国王神社」入口付近の信号のところを東に入って、約200m。駐車場有り。
「島広山」は江川右岸(西岸)の台地で、ここに平将門の重要な拠点(陣屋・兵営)として「石井営所」があったといわれている。もちろん、将門敗死の後には全ての建物が焼き払われ、今では記念の石碑が置かれているだけである。また、ここに営所があったということ自体も伝承によるものらしく、発掘調査等は殆ど行われていないようである。
「島広山・石井営所跡」を南東に下り、次の交差点を右折(南西へ)すると、直ぐに「石井の井戸」がある。将門が王城の建設地を探して当地を見回っていたとき、喉が渇いて水を求めたところ、1人の老翁が現れ、大きな石を軽々と持ち上げて投げつけた場所から清らかな泉が湧き出した。将門が老翁に名を問うと、「久方の 光の末の 影うつる 岩井を守る 翁なりけり」という歌1首を詠って消えたという。この老翁を祀ったのが「一言神社」で、社伝によれば、創建は承平5年(935年)で、祭神は一言主命。ただし、これらはいずれも伝説に過ぎず、おそらく将門以前から泉自体はあったのだと思われる。現在の地名は「岩井」と書くが、かつては「石井」と書いて「いわい」と訓んでいたようで、古代の「石井郷」に当たると思われている。
さて、先ほどの交差点に戻り、更に南東に進むと、「医王山 金剛院 延命寺(いおうさん こんごういん えんめいじ)」がある。寺伝によれば、創建は文安2年(1445年)で、薬師堂に安置された薬師如来像は行基作といわれ、将門公の護持仏であったとされており、房総平氏の子孫という相馬氏が開創したという。現在は真言宗豊山派に属する寺院となっている。
坂東市のHPから(島広山・石井営所跡)
同(延命寺の薬師如来)
写真1:「島広山・石井営所跡」

写真2:「石井の井戸」跡。今は泉は湧いていないようだ。

写真3:「一言神社」。「石井の井戸」の西側にある。

写真4:「延命寺」山門(場所:坂東市岩井1111。駐車場有り。)

写真5:山門を入ると、池に架かる石橋を渡って、その先に薬師堂がある。これが「島薬師」の由来だろうか。

写真6:同上、薬師堂

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