将門の胴塚(まさかどのどうづか)。
場所:茨城県坂東市神田山715(「延命院」境内)。国道354号線「神田山」交差点から県道252号線(坂東菅生線)を南東に約450m進み、「毘沙門天 延命院」の案内板があるところを右折(西へ)、約200m。駐車場有り。
「将門塚」というと、東京都千代田区大手町にある「将門の首塚」が有名だが、茨城県坂東市には「将門の胴塚」がある。平将門は、いわゆる承平天慶の乱において、天慶3年(940年)に敗死する。戦闘中、飛んできた矢に当たって死んだことになっているが、その場所が現在の「國王神社」付近とされる(2012年10月6日記事参照)。将門の首は京都(平安京)に送られ、都大路の東市に晒されたが、何ヵ月たっても腐らず、夜な夜な叫び続けた。あるいは、3日目には関東目指して飛び立ち、その落ちた場所が旧・武蔵国豊島郡芝崎村、現在の東京都千代田区大手町の「将門塚」付近であるとされる。因みに、東京の「神田神社」(神田明神)の主祭神が平将門公であると思っている人もいるようだが、「神田神社」は天平2年(730年)に国土開発の守り神として大己貴命を祀ったのが創建とされる。元々、「将門塚」付近に鎮座していたが、江戸城の拡張によって現在地(東京都千代田区外神田)に遷座したものである。将門公が合祀されたのは、14世紀初めに疫病が流行り、これが将門公の祟りだと考えられて、これを鎮めるためであったという。
さて、将門の胴体はどうなったのか。弟の将頼と家来らにより「神田山 如意輪寺 延命院(かださん にょいりんじ えんめいいん)」境内に運ばれ、密かに葬られたという。将門終焉の地といわれる「國王神社」からは南東に約4km離れているが、なぜ、ここまで運ばれたのかははっきりしない(なお、「國王神社」近くに将門の菩提寺とされる「延命寺」(前項参照)があって紛らわしいが、まったく別の寺院である。)。所在地の「神田山(かだやま)」という地名は、一説に将門の身体を葬った所として「からだやま」が訛ったものともいうが、当地は伊勢神宮の神領である「相馬御厨」に含まれていたため「神田」と名づけられたというのが通説で、ここに葬れば墳墓が荒らされないと考えられたからともいう。
因みに、「延命院」は現在は新義真言宗に属し、「篠越山 延命院 観音寺」とも称したという。本尊は延命地蔵菩薩。創建時期は不明だが、寺伝によれば、弘法大師が関東巡錫の折に一宇を立て、将門の時代に伽藍が整備されたと伝えられる(一説に、将門の営所の鬼門除けのため整備されたともいう。)。
「将門の胴塚」は「延命院」の不動堂の背後にある(というより、不動堂が胴塚そのものを祀っているような形になっている。)。「将門山古墳」として坂東市の埋蔵文化財に指定されているが、発掘調査等が行われたのかどうか不明。築造時期は奈良・平安時代とされているのは、「将門の胴塚」なら当然だが、いわゆる古墳時代の古墳とは違うものである。塚の上に榧(カヤ)の大木が根を張っており、この木も坂東市天然記念物に指定されている。幹回り3.6m、樹齢は1千年以上とされる。
坂東市のHPから(延命院と胴塚)
写真1:「延命院」不動堂(南向き)。扁額は「谷原光不動尊」となっている。なお、向って右手に本堂があったが、昭和39年に不審火により焼失。
写真2:「将門の胴塚」(東側から)。不動堂が塚(古墳)そのものを祀るように建てられているのがわかる。
写真3:同上(北側から)。「神田山 一名将門山」の石碑と青面金剛の石像。
写真4:同上(西側から)。向って右が「将門の胴塚」の由来を記した石碑、左が石塔婆。写真が小さくて見えにくいが、石塔婆の右側のもの(古くて黒っぽい方)は、東京の「将門塚」に安置されていたものを「史跡将門塚保存会」から贈られたもの。要するに、この胴塚は、首塚である「将門塚」公認のものということだろう。
写真5:同じ境内にある「観音堂」(宝永7年(1710年)建立)。
写真6:同じく「毘沙門天堂」
場所:茨城県坂東市神田山715(「延命院」境内)。国道354号線「神田山」交差点から県道252号線(坂東菅生線)を南東に約450m進み、「毘沙門天 延命院」の案内板があるところを右折(西へ)、約200m。駐車場有り。
「将門塚」というと、東京都千代田区大手町にある「将門の首塚」が有名だが、茨城県坂東市には「将門の胴塚」がある。平将門は、いわゆる承平天慶の乱において、天慶3年(940年)に敗死する。戦闘中、飛んできた矢に当たって死んだことになっているが、その場所が現在の「國王神社」付近とされる(2012年10月6日記事参照)。将門の首は京都(平安京)に送られ、都大路の東市に晒されたが、何ヵ月たっても腐らず、夜な夜な叫び続けた。あるいは、3日目には関東目指して飛び立ち、その落ちた場所が旧・武蔵国豊島郡芝崎村、現在の東京都千代田区大手町の「将門塚」付近であるとされる。因みに、東京の「神田神社」(神田明神)の主祭神が平将門公であると思っている人もいるようだが、「神田神社」は天平2年(730年)に国土開発の守り神として大己貴命を祀ったのが創建とされる。元々、「将門塚」付近に鎮座していたが、江戸城の拡張によって現在地(東京都千代田区外神田)に遷座したものである。将門公が合祀されたのは、14世紀初めに疫病が流行り、これが将門公の祟りだと考えられて、これを鎮めるためであったという。
さて、将門の胴体はどうなったのか。弟の将頼と家来らにより「神田山 如意輪寺 延命院(かださん にょいりんじ えんめいいん)」境内に運ばれ、密かに葬られたという。将門終焉の地といわれる「國王神社」からは南東に約4km離れているが、なぜ、ここまで運ばれたのかははっきりしない(なお、「國王神社」近くに将門の菩提寺とされる「延命寺」(前項参照)があって紛らわしいが、まったく別の寺院である。)。所在地の「神田山(かだやま)」という地名は、一説に将門の身体を葬った所として「からだやま」が訛ったものともいうが、当地は伊勢神宮の神領である「相馬御厨」に含まれていたため「神田」と名づけられたというのが通説で、ここに葬れば墳墓が荒らされないと考えられたからともいう。
因みに、「延命院」は現在は新義真言宗に属し、「篠越山 延命院 観音寺」とも称したという。本尊は延命地蔵菩薩。創建時期は不明だが、寺伝によれば、弘法大師が関東巡錫の折に一宇を立て、将門の時代に伽藍が整備されたと伝えられる(一説に、将門の営所の鬼門除けのため整備されたともいう。)。
「将門の胴塚」は「延命院」の不動堂の背後にある(というより、不動堂が胴塚そのものを祀っているような形になっている。)。「将門山古墳」として坂東市の埋蔵文化財に指定されているが、発掘調査等が行われたのかどうか不明。築造時期は奈良・平安時代とされているのは、「将門の胴塚」なら当然だが、いわゆる古墳時代の古墳とは違うものである。塚の上に榧(カヤ)の大木が根を張っており、この木も坂東市天然記念物に指定されている。幹回り3.6m、樹齢は1千年以上とされる。
坂東市のHPから(延命院と胴塚)
写真1:「延命院」不動堂(南向き)。扁額は「谷原光不動尊」となっている。なお、向って右手に本堂があったが、昭和39年に不審火により焼失。
写真2:「将門の胴塚」(東側から)。不動堂が塚(古墳)そのものを祀るように建てられているのがわかる。
写真3:同上(北側から)。「神田山 一名将門山」の石碑と青面金剛の石像。
写真4:同上(西側から)。向って右が「将門の胴塚」の由来を記した石碑、左が石塔婆。写真が小さくて見えにくいが、石塔婆の右側のもの(古くて黒っぽい方)は、東京の「将門塚」に安置されていたものを「史跡将門塚保存会」から贈られたもの。要するに、この胴塚は、首塚である「将門塚」公認のものということだろう。
写真5:同じ境内にある「観音堂」(宝永7年(1710年)建立)。
写真6:同じく「毘沙門天堂」
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