神が宿るところ

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水守城跡

2020-09-05 23:59:26 | 史跡・文化財
水守城跡(みもりじょうあと)。水守営所跡。
場所:茨城県つくば市水守621外。国道125号線と同408号線の交差点から、125号線を西へ約350mのところで左折(南へ)、約950m進んだところ(二岐になっているところ)で左側へ(側道へ)、約100m進んだ台地上。旧・田水山小学校(平成30年閉校)のある台地上。駐車場なし。
「水守城跡」は、筑波山の南西、約7km(直線距離)の台地上にある中世城館跡で、現在残る土塁、空堀、土橋などの遺構からすると、戦国時代のものとされる。しかし、軍記物語「将門記」(11世紀頃?)の中に出てくる「水守営所」(「営所」は兵営・軍営のことで、武将の本拠地として居館、軍事拠点、農業経営の事務所を兼ねていたという。)の跡とする説が強い。「将門記」の文脈からすると、「水守営所」は、平将門の叔父で義父に当たる平良正の居館だったとみられている。「平将門の乱」は元々、坂東平氏一族間の領地争いから始まっており、将門と良正の争いがその中心になる。「将門記」には、承平6年(936年)6月、平良兼が良正の味方をするため軍勢を集めて上総国武射郡(現・千葉県山武市)から「水守営所」に着いた、という記述がある。良兼は良正の兄(将門の伯父に当たる。)で、当時、坂東平氏の当主の立場にあって、上総介の地位にあった(下総介という資料もある。)。このようにして「平将門の乱」は次第に拡大していくのだが、良正・良兼に勝利することによって関東地方における将門の名声・権威が高まることになった。
ということで、「水守営所」は反・将門の本拠地のようになっていたのだが、「平将門の乱」後の動向は不明。坂東平氏の始祖・平高望(高望王)の長男・国香には貞盛と繁盛という2人の子がいたが、「平将門の乱」後、貞盛は繁盛の子・維幹を養子に迎え、常陸国を譲った。 維幹は常陸大掾職(常陸国司の第三等官。ただし、常陸国は親王任国であるため太守は赴任しないので、事実上の次官に当たる。)となり、「水守城」に住んだが、その後「多気城」(現・つくば市北条)を築いて移り、多気氏を名乗って、多気太夫、多気大掾と称した。これにより、「水守城」は廃城となったという伝承がある。あるいは、多気氏が建久4年(1193年)に没落した後、常陸守護職となった小田氏の支城の1つとなり、水守民部という人物が城主であったともいう。上記の通り、現存する「水守城跡」は戦国時代の遺構とされるが、現地はいかにも中世城館を建設する適地の感じで、「水守営所」の後、戦国時代に拡大・整備されたものだろうと思われる。
因みに、現・つくば市の北部には日本武尊に関わる伝説が多い(例、前項「鹿島神社」(つくば市大形)の磐座など)。当地の地名「水守」についても、当地の台地の下に清水が湧くところがあり、そこに日本武尊が泉の番人(水守り)を置いたことに由来するという。


写真1:「水守城跡」のある台地の北端の古墳とみられる土塁。物見台として使われていたらしい。


写真2:「水守城址」石碑。写真1の古墳のところにある。


写真3:水守城の由来の石碑かと思ったが、その説明はなく、常陸平氏の系図と田水山小学校の歴史が刻されている。


写真4:西端の土塁。これも古墳のようである。「水守古墳群」は元々6基あったらしい。


写真5:北端から見える筑波山。なお、台地下の水田は濠だったという。


写真6:旧・田水山小学校の南東の畑の中にある「鞍掛石」。


写真7:同上。近づいてみると、結構大きな石だが...


写真8:同上、裏側(東側)から見る。奥に見える建物は「筑波勤労者体育センター」。


写真9:同上。横(北側)からみると、思ったより薄い。確かに、鞍を懸けるのにちょうど良い感じ。板状なのは、古墳の石室か石棺の石材だったのかもしれない。それにしても、何故、畑の中にこんな形で置かれているのだろうか。

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