龍華山 慈尊院 安隠寺(りゅうげさん じそんいん あんのんじ)。
場所:茨城県稲敷市阿波961-1。「大杉神社」(前項)境内西側に隣接。駐車場なし。
「大杉神社」(前項)に隣接し、その別当寺として実質一体だったのだから、少なくとも近世までの歴史は「大杉神社」と同じのはずだが、別伝がある。元々、巨杉自体を対象とする自然信仰があったのかもしれないが、まず、神護景雲元年(767年)、当地を訪れた勝道上人が疫病に苦しむ村人を見て、巨杉の下に自作の霊神不動尊を祀ったのを創建とする。そして、延暦15年(796年)、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」(現・滋賀県大津市)の僧・快賢阿闍梨が蝦夷の賊長・悪路王の降伏を祈願するため、最澄(伝教大師)の作である「四魔降伏の不動明王像」と天竺の昆首羯摩の作である「弥勒菩薩像」を本尊として当寺院を開基した。この国家安寧祈祷の功により神領を賜り、その後、当寺院境内に「大杉明神」の社殿が建立されたという。つまり、当寺院の建立が先で、その後に境内社として「大杉神社」が造立されたが、後に「大杉神社」の名声が高まり、主客が逆転したということらしい。神仏混淆だったので、どちらが主か、ということでもないのだが、「大杉神社」の方でも勝道上人の創建としており、当寺院も江戸時代には天海大僧正が日光山座主となったため「日光山 輪王寺」(現・栃木県日光市)直兼帯寺院となっている(本末制度上は「逢善寺」(2022年5月28日記事)の末寺)ところから、日光山の修験の影響が窺われる。それは、文治年間(1185~1189年)、常陸坊海存が当寺院の僧として仕えており、後に源義経の家臣となったとされることにも表れていると思う(「海存」は一般に「海尊」と表記されるため、以下「海尊」とする。なお、海尊は義経らの都落ちに同行し、衣川の戦いでは山寺に参拝に出かけていて生き延びたとされるが、その後の消息は不明。)。海尊は巨体・紫髭・碧眼・鼻高であったとされ、最後の消息が不明であることなどから、本来「大杉明神」の眷属であり、平氏の専横を憎んで遣わされたとの伝説となり、姿形から天狗と同一視された(背景には、巨木(特に大杉)には天狗が棲むという全国共通の認識があったと思われる。)。更に、海尊には、源頼朝の追手からの逃亡中に山伏から貰った「赤い魚」を食べて長寿になったとか、枸杞(クコ)の実を常食していたため不老不死になったという伝説もできて、疫病封じの信仰も生まれたようだ。江戸時代、関東地方を中心に「大杉神社」の分社が多数創建されたが、疱瘡(天然痘)が流行したときに「大杉明神」の神面(天狗面)を借り出して祀ると疱瘡が収まったことによって各地に勧請されたものらしい。あまり遠くの村に神面を貸すと返してこないというので、「大杉神社」では9里(約36km)以内の村に限ったが、遠くても9里以内と偽る例が多く、「あんばの馬鹿九里」などといわれたとのこと。
明治時代初頭の神仏分離により当寺院は廃寺となったが、明治11年に再興された。現在は天台宗の寺院で、本尊は弥勒菩薩。なお、本堂、木造弥勒仏坐像、木造不動明王立像が稲敷市指定文化財となっている。
写真1:「安穏寺」境内入口。寺号標(「天台宗 龍華山 安隠寺」)
写真2:「常陸坊海存」石塔
写真3:本堂。境内は桜の名所となっているとのこと。
写真4:彩色が薄れてしまっているが、彫刻は精緻で多彩。
写真5:大師堂?
写真6:本堂向かって左手の小堂。「茨城百八地蔵霊場の第75番札所」なので、延命地蔵菩薩を安置していると思うのだが、石像の二臂半跏思惟像で、月待塔によくあるような如意輪観音菩薩ではないかと思う。
写真7:本堂裏の石造物。
写真8:左・地蔵菩薩石像、右手前・法華経の題目碑、右奥・大黒堂
場所:茨城県稲敷市阿波961-1。「大杉神社」(前項)境内西側に隣接。駐車場なし。
「大杉神社」(前項)に隣接し、その別当寺として実質一体だったのだから、少なくとも近世までの歴史は「大杉神社」と同じのはずだが、別伝がある。元々、巨杉自体を対象とする自然信仰があったのかもしれないが、まず、神護景雲元年(767年)、当地を訪れた勝道上人が疫病に苦しむ村人を見て、巨杉の下に自作の霊神不動尊を祀ったのを創建とする。そして、延暦15年(796年)、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」(現・滋賀県大津市)の僧・快賢阿闍梨が蝦夷の賊長・悪路王の降伏を祈願するため、最澄(伝教大師)の作である「四魔降伏の不動明王像」と天竺の昆首羯摩の作である「弥勒菩薩像」を本尊として当寺院を開基した。この国家安寧祈祷の功により神領を賜り、その後、当寺院境内に「大杉明神」の社殿が建立されたという。つまり、当寺院の建立が先で、その後に境内社として「大杉神社」が造立されたが、後に「大杉神社」の名声が高まり、主客が逆転したということらしい。神仏混淆だったので、どちらが主か、ということでもないのだが、「大杉神社」の方でも勝道上人の創建としており、当寺院も江戸時代には天海大僧正が日光山座主となったため「日光山 輪王寺」(現・栃木県日光市)直兼帯寺院となっている(本末制度上は「逢善寺」(2022年5月28日記事)の末寺)ところから、日光山の修験の影響が窺われる。それは、文治年間(1185~1189年)、常陸坊海存が当寺院の僧として仕えており、後に源義経の家臣となったとされることにも表れていると思う(「海存」は一般に「海尊」と表記されるため、以下「海尊」とする。なお、海尊は義経らの都落ちに同行し、衣川の戦いでは山寺に参拝に出かけていて生き延びたとされるが、その後の消息は不明。)。海尊は巨体・紫髭・碧眼・鼻高であったとされ、最後の消息が不明であることなどから、本来「大杉明神」の眷属であり、平氏の専横を憎んで遣わされたとの伝説となり、姿形から天狗と同一視された(背景には、巨木(特に大杉)には天狗が棲むという全国共通の認識があったと思われる。)。更に、海尊には、源頼朝の追手からの逃亡中に山伏から貰った「赤い魚」を食べて長寿になったとか、枸杞(クコ)の実を常食していたため不老不死になったという伝説もできて、疫病封じの信仰も生まれたようだ。江戸時代、関東地方を中心に「大杉神社」の分社が多数創建されたが、疱瘡(天然痘)が流行したときに「大杉明神」の神面(天狗面)を借り出して祀ると疱瘡が収まったことによって各地に勧請されたものらしい。あまり遠くの村に神面を貸すと返してこないというので、「大杉神社」では9里(約36km)以内の村に限ったが、遠くても9里以内と偽る例が多く、「あんばの馬鹿九里」などといわれたとのこと。
明治時代初頭の神仏分離により当寺院は廃寺となったが、明治11年に再興された。現在は天台宗の寺院で、本尊は弥勒菩薩。なお、本堂、木造弥勒仏坐像、木造不動明王立像が稲敷市指定文化財となっている。
写真1:「安穏寺」境内入口。寺号標(「天台宗 龍華山 安隠寺」)
写真2:「常陸坊海存」石塔
写真3:本堂。境内は桜の名所となっているとのこと。
写真4:彩色が薄れてしまっているが、彫刻は精緻で多彩。
写真5:大師堂?
写真6:本堂向かって左手の小堂。「茨城百八地蔵霊場の第75番札所」なので、延命地蔵菩薩を安置していると思うのだが、石像の二臂半跏思惟像で、月待塔によくあるような如意輪観音菩薩ではないかと思う。
写真7:本堂裏の石造物。
写真8:左・地蔵菩薩石像、右手前・法華経の題目碑、右奥・大黒堂
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