聖医王山 不動尊院 東光教寺(せいいおうざん ふどうそんいん とうこうきょうじ)。通称:江戸崎不動尊、願満不動尊。
場所:茨城県稲敷市江戸崎甲2617。茨城県道49号線(江戸崎新利根線)「江戸崎中入口」交差点から北東へ約60m。駐車場有り。なお、「江戸崎中入口」交差点から北西へ(急な登り坂)約130m進んで右折(北東へ)すると堂宇の前に行けるが、駐車場はその先に進んで本堂の裏手に回り込む(ちょっと分かりにくい。)。
寺伝によれば、嘉祥元年(848年)、円仁(慈覚大師。第3代天台座主)の開山とされる。文明2年( 1470年)に、江戸崎城主・土岐景成を壇越として、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」の塔頭「無動寺」の僧・幸誉法印が中興した(幸誉が開山したとの説も有力。)。戦国時代の戦火で荒廃するが、天正18年(1590年)に江戸崎城主・土岐治英が佐竹義宣と戦って滅ぶと、佐竹氏の家臣(与力)であった蘆名盛重が新たな江戸崎城主となり、天正20年(1591年)には会津黒川城稲荷堂(現・福島県会津若松市、「鶴ヶ城稲荷神社」)の僧・随風を招き、当寺院を再興した。随風は当寺院に約17年間居住したとされるが、武蔵国の「無量寿寺 北院」(後の「星野山 喜多院」。現・埼玉県川越市)の住持と兼任し、天海と名乗った。その後、南光坊・天海(慈眼大師)は100歳以上の長寿を保ち、徳川家康・秀忠・家光に仕え、江戸幕府の宗教政策に大きな影響を与えた。こうしたことから、慶長7年(1602年)、江戸崎は幕府直轄地とされ、当寺院は家康から朱印地150石が与えられた。その後、「関東八檀林」の筆頭として、800石の寺領・10万石の格式を受けるなど、隆盛を極めた。かつては、隣接する現・「江戸崎中学校」敷地に大本堂があり、境内5ヵ寺・境外4ヵ寺のほか、末寺・門徒114ヵ寺を擁していたとされる。明治9年(1876年)、仁王門と不動堂を残し、本堂以下を焼失。現在は天台宗に属し、本尊は円仁作と伝わる不動明王・両童子像で、織田信長による焼打ちまでは「無動寺」にあったものという。
蛇足:天海(慈眼大師)の前半生は詳細不明で、生年にも諸説あるが、天文5年(1536年)説が一般的で、寛永20年(1643年)没で数え年108歳になる。天海については、明智光秀と同一人物説が有名だが、当地には次のような伝承がある。即ち、土岐氏が領主のときには、当寺院の住持(院主)は、末寺のうち第一老「東光山 明王寺 圓密院」(現・稲敷市信太古渡)、第二老「北須賀山 壽福院 満願寺」(同・阿波崎。次項予定)、第三老「永平山 吉祥院 長福寺」(同・沼田)のいずれかから昇格就任するしきたりになっていた。ところが、新城主・蘆名盛重はこのしきたりを無視し、会津から連れてきた随風(天海)を住持にした。このため、第一老「圓密院」を中心に末寺門徒の不満が高まった。ところで、蘆名盛重というのは、佐竹氏第19代当主・佐竹義宣の実弟で、会津・蘆名氏の養子に入って当主になった人物である。しかし、伊達氏に攻められて会津から常陸に逃げてきて、佐竹氏から江戸崎城を与えられた、ということになる。ところが、佐竹氏が慶長7年(1602年)に出羽国秋田郡(現・秋田県)に転封になると、蘆名氏もこれに従って江戸崎を去った(天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に出陣して不在となったときという説もある。)。これを好機として、天海に不満を持っていた門徒らが当寺院に押し寄せ、天海を殺害しようとした。その物音に気付いた天海は、寝間着・裸足のまま裏門から逃げ出し、西にある「吉祥院」へ向かって駆け出した。その途中の坂で恐怖のため放屁したとして、後にその坂は「屁っぴり坂」と呼ばれるようになった。そして、何とか「吉祥院」に逃げ込み、空井戸に隠れて難を逃れたと伝えられる。さて、蘆名盛重は何故、天海を当寺院の住持にしたのか。天海の出自はよくわかっていないが、「東叡山開山慈眼大師縁起」によれば、陸奥国会津郡高田郷(現・福島県会津美里町)で生まれ、蘆名修理太夫平盛高の一族であるとされる。また、幼名を蘆名兵太郎といった、ということから、元は坂東・桓武平氏の三浦氏の流れを汲む蘆名氏の一族に属したようである(蘆名盛高は蘆名氏第13代当主。盛重はその7代くらい後になる。)。なお、天海は祈雨(雨乞い)を成功させるなど、単に蘆名氏の一族だから、ということだけでなく、それなりに法力もあったようであり、その後の活躍を見れば、政治力もあったということなのだろうが・・・。
写真1:「不動尊院」境内入口、寺号標(北関東三十六不動尊 第三十番霊場 江戸崎不動尊院」)
写真2:仁王門。中の金剛力士像は関東地方最大級のものという。手前の石碑は江戸崎八景の「醫王山の暮雪」。
写真3:仁王門を潜って、急な石段を上る。この石段は「長寿の坂」というそうな。
写真4:境内正面に本堂(祈願殿)
写真5:同上
写真6:本堂向かって左前に「願満不動尊」の銅像
写真7:本佛殿(回向堂)。 三尊一仏の釈迦如来像が安置されているとのこと。
写真8:稲荷堂
写真9:本堂前から見える小野川
場所:茨城県稲敷市江戸崎甲2617。茨城県道49号線(江戸崎新利根線)「江戸崎中入口」交差点から北東へ約60m。駐車場有り。なお、「江戸崎中入口」交差点から北西へ(急な登り坂)約130m進んで右折(北東へ)すると堂宇の前に行けるが、駐車場はその先に進んで本堂の裏手に回り込む(ちょっと分かりにくい。)。
寺伝によれば、嘉祥元年(848年)、円仁(慈覚大師。第3代天台座主)の開山とされる。文明2年( 1470年)に、江戸崎城主・土岐景成を壇越として、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」の塔頭「無動寺」の僧・幸誉法印が中興した(幸誉が開山したとの説も有力。)。戦国時代の戦火で荒廃するが、天正18年(1590年)に江戸崎城主・土岐治英が佐竹義宣と戦って滅ぶと、佐竹氏の家臣(与力)であった蘆名盛重が新たな江戸崎城主となり、天正20年(1591年)には会津黒川城稲荷堂(現・福島県会津若松市、「鶴ヶ城稲荷神社」)の僧・随風を招き、当寺院を再興した。随風は当寺院に約17年間居住したとされるが、武蔵国の「無量寿寺 北院」(後の「星野山 喜多院」。現・埼玉県川越市)の住持と兼任し、天海と名乗った。その後、南光坊・天海(慈眼大師)は100歳以上の長寿を保ち、徳川家康・秀忠・家光に仕え、江戸幕府の宗教政策に大きな影響を与えた。こうしたことから、慶長7年(1602年)、江戸崎は幕府直轄地とされ、当寺院は家康から朱印地150石が与えられた。その後、「関東八檀林」の筆頭として、800石の寺領・10万石の格式を受けるなど、隆盛を極めた。かつては、隣接する現・「江戸崎中学校」敷地に大本堂があり、境内5ヵ寺・境外4ヵ寺のほか、末寺・門徒114ヵ寺を擁していたとされる。明治9年(1876年)、仁王門と不動堂を残し、本堂以下を焼失。現在は天台宗に属し、本尊は円仁作と伝わる不動明王・両童子像で、織田信長による焼打ちまでは「無動寺」にあったものという。
蛇足:天海(慈眼大師)の前半生は詳細不明で、生年にも諸説あるが、天文5年(1536年)説が一般的で、寛永20年(1643年)没で数え年108歳になる。天海については、明智光秀と同一人物説が有名だが、当地には次のような伝承がある。即ち、土岐氏が領主のときには、当寺院の住持(院主)は、末寺のうち第一老「東光山 明王寺 圓密院」(現・稲敷市信太古渡)、第二老「北須賀山 壽福院 満願寺」(同・阿波崎。次項予定)、第三老「永平山 吉祥院 長福寺」(同・沼田)のいずれかから昇格就任するしきたりになっていた。ところが、新城主・蘆名盛重はこのしきたりを無視し、会津から連れてきた随風(天海)を住持にした。このため、第一老「圓密院」を中心に末寺門徒の不満が高まった。ところで、蘆名盛重というのは、佐竹氏第19代当主・佐竹義宣の実弟で、会津・蘆名氏の養子に入って当主になった人物である。しかし、伊達氏に攻められて会津から常陸に逃げてきて、佐竹氏から江戸崎城を与えられた、ということになる。ところが、佐竹氏が慶長7年(1602年)に出羽国秋田郡(現・秋田県)に転封になると、蘆名氏もこれに従って江戸崎を去った(天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に出陣して不在となったときという説もある。)。これを好機として、天海に不満を持っていた門徒らが当寺院に押し寄せ、天海を殺害しようとした。その物音に気付いた天海は、寝間着・裸足のまま裏門から逃げ出し、西にある「吉祥院」へ向かって駆け出した。その途中の坂で恐怖のため放屁したとして、後にその坂は「屁っぴり坂」と呼ばれるようになった。そして、何とか「吉祥院」に逃げ込み、空井戸に隠れて難を逃れたと伝えられる。さて、蘆名盛重は何故、天海を当寺院の住持にしたのか。天海の出自はよくわかっていないが、「東叡山開山慈眼大師縁起」によれば、陸奥国会津郡高田郷(現・福島県会津美里町)で生まれ、蘆名修理太夫平盛高の一族であるとされる。また、幼名を蘆名兵太郎といった、ということから、元は坂東・桓武平氏の三浦氏の流れを汲む蘆名氏の一族に属したようである(蘆名盛高は蘆名氏第13代当主。盛重はその7代くらい後になる。)。なお、天海は祈雨(雨乞い)を成功させるなど、単に蘆名氏の一族だから、ということだけでなく、それなりに法力もあったようであり、その後の活躍を見れば、政治力もあったということなのだろうが・・・。
写真1:「不動尊院」境内入口、寺号標(北関東三十六不動尊 第三十番霊場 江戸崎不動尊院」)
写真2:仁王門。中の金剛力士像は関東地方最大級のものという。手前の石碑は江戸崎八景の「醫王山の暮雪」。
写真3:仁王門を潜って、急な石段を上る。この石段は「長寿の坂」というそうな。
写真4:境内正面に本堂(祈願殿)
写真5:同上
写真6:本堂向かって左前に「願満不動尊」の銅像
写真7:本佛殿(回向堂)。 三尊一仏の釈迦如来像が安置されているとのこと。
写真8:稲荷堂
写真9:本堂前から見える小野川
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