神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

常陸大掾氏墓所

2023-11-18 23:34:01 | 史跡・文化財
常陸大掾氏墓所 (ひたちだいじょうしぼしょ)。
場所:茨城県石岡市国府5-9-3(「平福寺」の住所)。「富田北向観音堂」(前項)の東側約20mのところに「平福寺」参道入口がある。入口がやや狭いが、境内に駐車スペースあり。
曹洞宗「春林山 平福寺」の境内に「常陸大掾氏墓所」がある。伝承によれば、平安時代中期、桓武天皇の曾孫である平国香が坂東に下向して常陸国に土着、常陸国の大掾となり、菩提寺として天台宗「興国山 平福寺」を開基した。寺号は、平氏の繁栄(福)を祈念して名付けたものという。因みに、国司の官職は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の4つあり、掾は第3等官に当たる。常陸国の国級が「大国」であったため、掾に大掾と小掾があり、また、親王任国として国守に親王が補任されるが、赴任はしなかったので、大掾は実質的には国司のナンバー2となる。そして、国香の子・貞盛が平将門の乱を鎮圧した功績により、その子孫が常陸大掾職を継承、在庁官人を掌握して「大掾氏」と称するまでになったとされる。さて、「平福寺」内の「常陸大掾氏墓所」というのは、高さ1.62mという大きな五輪塔を中央にして、その周囲に14基の五輪塔が並んでいるもので、一説に中央の五輪塔が平国香の墓(あるいは供養塔)であるという。ただし、平国香流の常陸平氏の惣領が代々、大掾職を承継して常陸国府の在庁官人を支配してきたというのは史実に反するようで、どうやら、鎌倉時代初期に常陸平氏の庶流である馬場資幹が源頼朝から祖先に因んだ常陸大掾の地位を与えられてから、世襲としての「大掾氏」が成立したらしい。なお、「平福寺」が天台宗から曹洞宗に改宗した経緯は不明とされているが、大掾氏が天台宗を信仰していたのに対し、大掾氏を滅ぼした佐竹氏が曹洞宗を信仰していたらしいので、それに起因したもの思われる(佐竹氏は「関ヶ原の戦い」の後に出羽国秋田(現・秋田県)に転封となるが、寛正3年(1462年)に常陸国久慈郡太田村(現・茨城県常陸太田市)に創建された佐竹氏菩提寺の曹洞宗「萬固山 天徳寺」も現・秋田県秋田市に移転している。)。こうしたことなどから、「常陸大掾氏墓所」の石塔は、(馬場)大掾氏第9代・詮国(貞和2年・正平元年(1346年)に「府中城」を築いたとされる人物)以降のものとみられているようである。


写真1:「平福寺」本堂。本尊:如意輪観世音菩薩。


写真2:同上、本堂の向かい側にある「常陸大掾氏碑」(高さ3.2m・幅1.8m)


写真3:同上、本堂の南側にある「常陸大掾氏墓所」


写真4:同上


写真5:同上。中央の最も大きな五輪塔が「平国香の墓」とされるもの。


写真6:同上、境内には「景清の墓」という五輪塔もある。歌舞伎などで有名な悪七兵衛・平景清(藤原景清)は現・石岡市の生まれという伝承があるという。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 富田北向観音堂 | トップ | 愛宕神社古墳(茨城県石岡市) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

史跡・文化財」カテゴリの最新記事