神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

秋葉山 秋葉寺(静岡市清水区西久保)

2011-07-12 22:42:19 | 寺院
秋葉山 秋葉寺(あきはさん しゅうようじ)。
場所:静岡市清水区西久保1-1-14(秋葉山本坊 峰本院の住所)。県道54号線(清水停車場線)から、清水東高校の北側の道路を東に約300m入る。「秋葉山本坊 峰本院」に駐車場あり。
JR東海道本線は静岡市清水区七ツ新屋を過ぎるとカーヴして東に向かい、清水港方面に進む。一方、古代東海道はそのまま直進したと考えられるから、現在の東海道新幹線とほぼ同じルートを進んだと思われる。そうすると、ちょうどぶつかるのが「真土山(まつちやま)」という小さな丘で、新幹線はその北麓を通り抜けている。
丘の上にある「秋葉山 秋葉寺」は、元亀2年(1571年)、駿州・岡清水の領主となった天野小四郎景直の開山。景直の父である天野宮内右衛門景貫の居城・犬居城の鎮守であった秋葉山(現・静岡県浜松市天竜区春野町)の三尺坊大権現を勧請したものである。ただし、当寺では、分霊の勧請ではなく、遷座であったと考えているようである。本尊の三尺坊大権現は、神仏混淆・修験道の神格で、鎮火の法に通力を有していたため、火伏の神として崇められている。現在は真言宗醍醐派に属するが、山上の「秋葉寺」自体は無住で、住職は山麓の峰本院、榮松院、福昌院の3院が1年交替で務めているという。
ところで、「秋葉寺」の裏(北側)に新幹線が通っていることは上に書いたが、その北にも丘があり、現在は「秋葉山公園」という公園になっている。この丘からは円墳が3つ発見されており、「秋葉山古墳群」というらしい。その3号墳は「鹿島神社」の境内にあるというが、同じ境内に「要石」もあって、信仰の対象となっている。常陸国一宮「鹿島神宮」の「要石」は、地中で地震を起こす大鯰の頭を抑えているとされる石で、元は磐座であったともいわれている。清水の「鹿島神社」の「要石」も、地上に出ている部分はわずかだが、根元が深くて底知れず、いかなる天変地異にも動じないとされる。また、石工が割ろうとしたところ、石が血を流したという。「鹿島神社」の勧請が先か、「要石」の祭祀が先かは不明だが、古墳の存在からしてもこの付近の丘が古代からの聖地であり、「鹿島神社」が祀られているというのは、ヤマト政権による武力制圧・国土開発があった証なのかもしれない。


「秋葉山本坊峰本院」さんのHP

「駿州秋葉山 榮松院」さんのHP

「00shizuoka静岡観光ガイド」さんのHPから(秋葉山古墳群)


写真1:「秋葉山 秋葉寺」入口。向かって左が峰本院、向かって右手前が福昌院、同奥が榮松院。「秋葉山秋葉寺」本堂は、正面の石段を登った山上にある。


写真2:「秋葉山秋葉寺」本堂


写真3:「鹿島神社」(場所:静岡市清水区西久保509。「秋葉寺」の東側の道路を北へ、約400m。駐車場なし)。祭神は武甕槌命で、常陸国一宮「鹿島神宮」と同じ。


写真4:境内に「要石」が祀られている。


写真5:「要石」。よく見ると、矢(クサビ)を当てたような傷がある。



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日本平

2011-07-08 23:03:08 | 史跡・文化財
日本平(にほんだいら)。
場所:静岡市清水区馬走。県道407号線(静岡草薙清水線。通称:南幹線)「聖一色」交差点から「日本平パークウェイ」で山頂まで行ける。ただし、途中に「日本平動物園」があり、休日等には大渋滞することがあるので、清水区側から上るとスムーズかもしれない。山頂付近に駐車場有り。
「日本平」は静岡市駿河区から清水区に跨る丘陵で、山としては有度山(うどやま、標高307m)というが、山頂付近は広い平坦地となっている。昭和25年に毎日新聞主催で選定された「新日本観光地百選」の平原の部で、全国第1位に輝いたほか、昭和34年には国の名勝にも指定されている。
「日本平」という地名は、「日本坂」と同様、日本武尊が関係している。即ち、日本武尊が野火攻めの危機を逃れた後、反抗する賊を征伐し、この山上の平原から四方を眺めたという説話に因んでいる。このため、日本武尊の銅像も建てられている(写真3)が、各地にある日本武尊像の中でも特にイケメンだという。
「有度山」という名も、旧・有度郡と同じく、古代からの地名である。山頂近くに万葉歌碑が建てられており(写真2)、有度部牛麻呂という人物の防人歌が刻されている。牛麻呂が干支の丑に因むならば、神亀2年(725年)乙丑(きのとうし)の生まれかともいわれており、天平勝宝7歳(755年)に防人として筑紫に派遣されたという。その歌は、「水鳥の 立ちの急ぎに 父母に 物言ず来にて 今ぞ悔しき」(原文省略)で、その意味は「水鳥が飛び立つ時のような出発の慌ただしさに、両親に何も言わず来てしまって、今になっては心残りだ」。防人は、遠江以東の東国から徴用され、装備や食料なども自弁で、非常に過酷な負担であった。


「伊豆・駿河観光ガイド」さんのHPから(日本平)

「日本平観光組合」さんのHPから(日本平の万葉の歌碑)


写真1:「日本平」石碑。山上の駐車場にある。


写真2:万葉歌碑。駐車場の北側の道路を渡って、少し下りたところにある。


写真3:日本武尊の銅像。なかなかの美青年。「日本平美術館」前の駐車場にある。


写真4:展望台から見る富士山と駿河湾
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牛石

2011-07-05 22:39:30 | 名石・奇岩・怪岩
牛石(うしいし)。
場所:曹洞宗「牛谷山 桃林寺」(静岡市清水区大内788)の裏の農道を少し上った路傍。「鷲峰山 霊山寺」(2011年2月15日記事)の南、約600mのところにあるが、「桃林寺」も「霊山寺」と同じように「北街道」から北に谷川を遡った場所。「桃林寺」に駐車場あり。
式内社「白澤神社」が鎮座する静岡市葵区牛妻の「牛妻」という地名説話について、「道白堂」(2011年1月4日記事)の項で書いた。それは、僧侶の身で女性に焦がれ死にしたために牛に化してしまったという話だが、相手の女性が住んでいた竜爪山の西麓を「牛妻」と名づけたということになっている。
この話には、更に続きがある。この牛が悔悟して死んだ後、師の道白禅師縁の清水・有東坂の「補陀山 楞厳院」に葬るために鳥坂村まで運んできたとき、死体が急に重くなったので路傍に下ろしたところ、石になっていたという。この石が「牛石」(写真1)で、石工が鑿を当てたところ、石が血を流したという話もある。言われてみれば、牛が伏せたような形の石で、石の傍らに石祠が祀られており、祭神は牛頭天王であるという。また、近くの「桃林寺」という寺の名は、中国の故事で、周の武王が戦争に用いた牛を「桃林の野」に放したことから、戦備を解除する喩えを「桃林に牛を放つ」ということに因んだものともいわれる。また、一説に、静岡市清水区梅ヶ谷にある臨済宗「神谷山 牛欄寺」の裏山にも「牛石」があり、こちらが雄牛で、「桃林寺」裏の石が雌牛であるともいう。
ところで、「桃林寺」などがある瀬名丘陵(梶原山、牛谷山などともいう。)には、尾根などに多数の古墳があることが知られており、「瀬名古墳群」と呼ばれている。5~7世紀にかけての古墳(地方豪族の墓)で、確認されているのは7基の前方後円墳、円墳、方墳だそうである。


写真1:「桃林寺」


写真2:「桃林寺」裏の「牛石」


写真3:「牛欄寺」(場所:静岡市清水区梅ヶ谷88-1。「桃林寺」の北東、約1.5km)。本堂前に牛のブロンズ像はあるが、「牛石」はどこにあるか不明。
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穂積神社(静岡市葵区平山)

2011-07-01 21:18:04 | 神社
穂積神社(ほづみじんじゃ)。通称:竜爪大権現(りゅうそうだいごんげん)。
場所:静岡市葵区平山1769。県道201号(平山草薙停車場線、通称「竜爪街道」)をひたすら北上し、「竜爪山」山頂近くで案内板が出ている。駐車場あり。
社伝によれば、当神社の創建は、慶長14年(1609年)、瀧権兵衛という者(武田の落人という。)が竜爪山に登り、白い鹿を撃ったところ正気を失った。家族が熱心に祈ったところ、3年後に神懸かり、自ら竜爪権現と名乗り、山上に祠を建てて祀るならば病を治してやろうとのお告げがあった。そこで、山上の「亀石」の上に小祠を建て、自ら神官となったという。
「竜爪山」という名は、日本武尊が東征の折、この山から時雨が襲ってきて衣を濡らしたことから、時雨峰(しぐれみね、ジウホウ)、時雨匝山(しぐれめぐるやま、ジウソウサン)といい、これが訛って「リュウソウザン」になったといい、あるいは、山頂に常に雲がたなびいていたが、あるとき竜が降りてきて、誤って爪を落としたということから、その名がついたともいう。ただし、これらは、いかにもコジツケめいていて、納得しにくい。本来、「竜爪山」は、薬師岳(1051m)と文珠岳(1041m)をの二つを総称した呼び名で、古くから修験道が盛んであったところから、熊野速玉大社と一万宮の本地仏とされる薬師如来と文殊菩薩に当て、「両所権現(リョウショゴンゲン)」といったのが「リュウソウ」になったという説もある。「文珠岳」の字が「文殊」と違うのはともかく、薬師如来の脇侍は文殊菩薩ではないので、なぜ、この2仏の名が採られたのか不明である。
さて、明治の神仏分離以前は、神仏混淆の神格「龍爪大権現」を祀っていた。魔除護符の神像を見ると、翼があって鼻高の大天狗の姿であるが、炎を纏い、右手に剣、左手に索縄を持っており、不動明王と合体したような形容となっている。これは、「秋葉山三尺坊」などとも通じるものである。龍爪山には、昔から「天狗倒し」や「天狗礫」という怪異があったと伝えられており、神社の創建とは別に、深山に神とも魔ともつかぬものが棲んでいたらしい。天狗研究の権威、知切光蔵氏は「天狗の研究」(昭和50年9月)の中で「大天狗番付」を編んでいるが、「竜爪権現」は番付外の「取締役」5狗のうちの1狗に当てられている。「取締役」は、「大天狗を上回る実力を備えた超大物」であるというのである。そして、「権現自体は天狗の仲間に入れられることを、人間の賢しらとして片腹痛く思ってござるかも知れない神代紀以来の荒っぽい地主神である・・・」とされる。文政3年(1820年)に「山人(天狗)修行から戻った」という少年・寅吉からの聞き書き、平田篤胤の「仙界異聞」によれば、身長は7尺~1丈(約2m~3m)。竜爪山の奥の「千丈ガ嶽」では、2尺(約60cm)の足跡と荷車2台分の糞を見たといい、糞は草木を蒸した臭いがしたという。
そんな「竜爪大権現」も明治の神仏分離で「穂積神社」となり、祭神は大己貴命と少彦名命とされたが、「龍爪さん」と通称されて神威を現わし続けた。その御利益の1つは降雨で、既述のとおり、山上に雲を孕んでいることが多く、祈雨の対象になったようである。神社創建の話の中に出てきた「亀石」というのは本来「神石」であって、往古はこれを磐座として神に祈ったのかもしれない。一説に、確実に雨を降らせるには、牛の首を山中に置いてくることだという。これは、神への生贄というより、神は血を不浄として嫌い、怒って雨を降らせるのだとされる。したがって、このようなことをするのは信者ではなく、相場師などが多かったという。
御利益のもう1つは弾避けで、特に第二次世界大戦時には、出征兵士やその家族などが盛んに参詣したらしい。竜爪山の祭では、近郷の猟師が集まり、盛んに空砲を撃ったという。実は、「龍爪大権現」は鉄砲の音が大嫌いで、鉄砲弾を無力にしたようである。


竜爪山信仰の歴史については、このHPが詳しい。「龍爪山の歴史」

L-wave(えるウェーブ)さんのHPから(穂積神社)


写真1:旧参道登り口。ここにも10台分くらいの駐車場がある。


写真2:社号標と鳥居の扁額は「竜爪山穂積神社」となっている。


写真3:社殿正面。参拝当日、里では曇りだったが、「穂積神社」に登ると雨粒が落ちてきた。

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