神が宿るところ

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下総国の古代東海道(その1・豊嶋駅)

2013-04-06 23:21:06 | 古道
古代東海道は当初、相模国(現・神奈川県)の観音崎から東京湾を船で渡って上総国に上陸、そこから北上して下総国を縦断(現・千葉市~佐倉市~成田市)して「香取海」に到り、再び船に乗って常陸国に入った(終点は常陸国府)とされる。これは、日本武尊の東征ルートと同じであるという。因みに、国名に前・中・後、上・下が付いている場合、都に近いほうから前・中・後あるいは上・下を付ける。房総半島の北側が下総国、南側が上総国になっているのは、都からの道順が上総国~下総国になっていたからだ、というのが通説。
さて、武蔵国は、元は東山道に属していたが、「続日本紀」の宝亀2年(771年)の記事により、東海道に所属替えとなったことが判る。また、その記事によれば、東山道の負担を負う上に、武蔵国を経由して下総国等へ行く公使も多くて負担が重いので、東海道に所属替えしてほしい、という理由が記されている。したがって、以前から下総国に向うルートはあったことになる。そして、「延喜式」によれば、武蔵国最後の駅は「豊嶋」駅になる。東京都には「豊島区」という地名があるが、「豊嶋」というのは比較的よくある地名だそうで、古代東海道武蔵国の「豊嶋」駅家は現・谷中霊園(東京都台東区谷中七丁目)辺りと推定されている。発掘調査等の結果ではないが、その前の駅の「大井」駅は現・JR京浜東北線「大井町」駅(東京都品川区)付近(こちらは遺称地である。)とされ、そこから北上した直線的なルートと、旧・下総国に当たる東京低地に残る古代直線道路の痕跡のルートの交点が、「谷中霊園」付近となる。木下良監修・武部健一著「完全踏破 古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道」(2004年10月)を引用すると、「現在のJR品川駅付近からは近世東海道、現在の国道15号に沿って北上し、JR田町駅付近から日比谷通りで皇居前を通り、名前が変わって本郷通りを北進し、直線路がなくなってもそのまま上野公園の西端を通って行けば谷中霊園に達する。ここが木下による豊嶋である。」。「東京低地に残る古代直線道路の痕跡」については、また別項で採り上げたい。
ところで、現「谷中霊園」付近は交通の要衝であったようで、東京都北区西ヶ原の「北区立滝野川公園」付近の「御前前遺跡」は武蔵国の「豊嶋郡家」跡と推定されている。ここから台地上を地形なりに南東に進むと、約3kmで台地の端の「谷中霊園」に到る。また、武蔵国府(現「大国魂神社」付近(東京都府中市))から下総国府(現「市川市国府台公園」付近(千葉県市川市))まで直線を引くと、「谷中霊園」の南端付近を通る。

「谷中霊園」は東京都立の霊園で、元は谷中「天王寺」の寺域であった。現在も谷中「天王寺」等の墓地も隣接して広大な霊園となっており、通称「谷中墓地」ともいわれる。なお、谷中「天王寺」こと「護国山 尊重院 天王寺」(場所:東京都台東区谷中7-14-8)は、元々、文永11年(1274年)に日蓮宗「長耀山 感応寺」として開山したが、不受不施派に属したため江戸幕府から弾圧を受け、元禄11年(1698年)に天台宗に改宗、天保4年(1833年)に現寺号に改称したという。この寺の五重塔は、幸田露伴の「五重塔」のモデルとなったことで有名であるが、残念ながら昭和32年に放火により焼失した。なお、現在の本尊は阿弥陀如来であるが、天台宗への改宗時には毘沙門天であり、現在も「谷中七福神」の毘沙門天に当てられている。


天台宗東京教区のHPから(天王寺)


写真1:谷中「天王寺」山門。入ったところに銅製の釈迦如来坐像(台東区指定有形文化財)がある。


写真2:同上。写真1の山門は現在的なデザインだが、右手に少し古風な門がある。
コメント (1)
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