守谷城址(もりやじょうし)。別名:平将門城址、相馬城址。
場所:茨城県守谷市本町942ほか。国道294号線と茨城県道46号線(野田牛久線)の「北園」交差点から、県道を東へ約900mの交差点(角にコンビニ「ローソン守谷松並庚塚店」がある。)で右折(北へ)、約1kmの信号機のある交差点の1つ先の狭い道路に左折して(東へ)入り、約90mのところに駐車場が有る。なお、南側の高台に「守谷小学校」があるが、その敷地が江戸時代の「守谷城」本丸跡とされる場所で、グラウンドの西端の先に「茨城百景 守谷城址」という石碑と説明板がある。
「守谷城址」は、中世~近世の城郭跡だが、平将門が「新皇」を宣言したとき、ここに王城を築き、今日に準えた「偽都」の中心としたとの伝説がある。実際には、将門の叔父・平良文の後裔、千葉氏の中興・千葉常胤が6人の子(「千葉六党」)に所領を分け与えたとき、「相馬御厨」(「伊勢神宮」に寄進された下総国相馬郡の荘園)を受け継いだのが次男・師常で、相馬(小)次郎師常を名乗るようになったのが始まり(13世紀初頭)とされる。この時点で守谷城の城館があったどうか不明だが、史料では、師常の曾孫・胤継、またはその子・胤親の頃には存在したらしい。中世の守谷城は、現在「守谷城址公園」になっている部分(「城山地区」という。)のみであるが、北東に伸びた舌状の台地(通称「平台山」)を加工した連郭式の城で、三方が小貝川からの水を湛えた沼沢地に囲まれていたという。戦国時代には、相馬氏は古河公方の配下となり、守谷城を古河公方・足利義氏の御座所とするとして、いったん城を明け渡したが、結局、その話は流れた。天正18年(1590年)、北条氏側についていた相馬氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに敗れ、没落する。相馬氏の後、徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、以後、現・「守谷小学校」周辺まで拡張した(「城内地区」という。更に、その南に形成された城下町を「城下地区」と称する。)。その後、幕府直轄領になったりした後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が佐倉城主となったときに、佐倉藩領になった(佐倉藩は現・千葉県佐倉市で、守谷城主は不在。)。寛文9年(1669年)には酒井忠挙が城主となるが、天和元年(1681年)に厩橋城(現・群馬県前橋市)へ移ってからは空き城となり、城下町も衰退したとされる。
さて、何故、守谷城が将門の「王城」とされたかであるが、軍記物語「将門記」では単に「下総国の亭南」としか書かれていない。「亭」は「国庁」(国司が執務する施設)の意味とされるが、下総国国府は現・千葉県市川市にあったので、ここでは国庁の支庁(出先機関)を指すという説があるものの、詳細は不明(なお、「下総国府」(2013年1月12日記事)、「下総国亭(庁)跡」(2012年9月8日記事)参照)。「偽都」自体を虚構とする説も有力だが、通説では、「亭」は将門の本拠地=石井営所(現・茨城県坂東市、「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事)を指し、「亭南」はその南側のことだろうとする。「将門記」には「相馬郡大井津を以って、号して京の大津と為さん」という記述もあるので、「王城」は相馬郡内だろう(現・坂東市は旧・猿島郡)という反論があるが、そもそも「大津」は京都からかなり距離があるとか、「王城」とは別の場所だから敢えて「相馬郡」と記したとかという再反論があって、何とも言えないところ。その後の軍記物語(「太平記」(14世紀頃?)など)において「将門が相馬郡に都を立てた」というような記述が一般的になるが、それでも、守谷城が将門の「王城」の地であるとする古史料は殆ど存在しない。おそらく、家名に箔を付けたい相馬氏の宣伝によるところが大きかったとみられる。将門は相馬郡の生まれとされて相馬小次郎と名乗ったという説がある(将門は三男であったが、長男が早世したため、次郎と称したとされる。因みに、四男・将頼は御厨三郎、五男・将平は大葦原四郎という。)が、上記の通り相馬氏の始祖・千葉師常が相馬(小)次郎と称したことと重ね合わされているようにも思われる。
守谷市観光協会のHPから(守谷城)
写真1:「茨城百景 守谷城址」石碑。かつては、この辺りに「守谷城」の大手門があったという。なお、向かって右が現・「守谷小学校」。
写真2:同上、横から見る。城址の土塁とされるものが残っている。
写真3:「平将門城址」石碑。「守谷小学校」グラウンドの南側に沿って歩道があるが、そのフェンスの外にあって、写真が撮りにくい場所にある(目立たないところに追いやられた感がある。)。この石碑の背後にも土塁があり、その向こうは谷に向かう坂道になっている。なお、この石碑は、地元の大地主で衆議院議員や茨城農工銀行頭取も務めた斎藤 斐氏らが明治34年に建てたもので、守谷城を将門の城と強く印象付ける契機の1つとなったといわれている。
写真4:「守谷小学校」西門(グラウンド側。正門は北側にある。)
写真5:「守谷城址公園」駐車場から北側を見たもの。左側は自然の谷を利用した堀で、右側が守谷城址。
写真6:「守谷城址公園」入口
写真7:主郭跡。「平台山」という名の通り、かなり広い台地。
写真8:土橋
写真9:土橋の下の西側に、船着き場跡がある。かつては堀にも水があったことになる。
写真10:空堀の先に二郭。古図面では本丸としているようだ。
写真11:右手の一段高いところが「妙見郭(曲輪)」で、北東端部分。相馬氏が築城した際、ここに弓箭神として妙見菩薩を祀ったとされる。
写真12:「妙見郭」から見た「守谷沼」。元は広く「古城沼」という沼沢地であったらしい。低地の奥に見える木々は、北西~南東に流れる小貝川の河岸段丘上のもの。
場所:茨城県守谷市本町942ほか。国道294号線と茨城県道46号線(野田牛久線)の「北園」交差点から、県道を東へ約900mの交差点(角にコンビニ「ローソン守谷松並庚塚店」がある。)で右折(北へ)、約1kmの信号機のある交差点の1つ先の狭い道路に左折して(東へ)入り、約90mのところに駐車場が有る。なお、南側の高台に「守谷小学校」があるが、その敷地が江戸時代の「守谷城」本丸跡とされる場所で、グラウンドの西端の先に「茨城百景 守谷城址」という石碑と説明板がある。
「守谷城址」は、中世~近世の城郭跡だが、平将門が「新皇」を宣言したとき、ここに王城を築き、今日に準えた「偽都」の中心としたとの伝説がある。実際には、将門の叔父・平良文の後裔、千葉氏の中興・千葉常胤が6人の子(「千葉六党」)に所領を分け与えたとき、「相馬御厨」(「伊勢神宮」に寄進された下総国相馬郡の荘園)を受け継いだのが次男・師常で、相馬(小)次郎師常を名乗るようになったのが始まり(13世紀初頭)とされる。この時点で守谷城の城館があったどうか不明だが、史料では、師常の曾孫・胤継、またはその子・胤親の頃には存在したらしい。中世の守谷城は、現在「守谷城址公園」になっている部分(「城山地区」という。)のみであるが、北東に伸びた舌状の台地(通称「平台山」)を加工した連郭式の城で、三方が小貝川からの水を湛えた沼沢地に囲まれていたという。戦国時代には、相馬氏は古河公方の配下となり、守谷城を古河公方・足利義氏の御座所とするとして、いったん城を明け渡したが、結局、その話は流れた。天正18年(1590年)、北条氏側についていた相馬氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めのときに敗れ、没落する。相馬氏の後、徳川家康の家臣・菅沼(土岐)定政が入城し、以後、現・「守谷小学校」周辺まで拡張した(「城内地区」という。更に、その南に形成された城下町を「城下地区」と称する。)。その後、幕府直轄領になったりした後、寛永19年(1642年)に堀田正盛が佐倉城主となったときに、佐倉藩領になった(佐倉藩は現・千葉県佐倉市で、守谷城主は不在。)。寛文9年(1669年)には酒井忠挙が城主となるが、天和元年(1681年)に厩橋城(現・群馬県前橋市)へ移ってからは空き城となり、城下町も衰退したとされる。
さて、何故、守谷城が将門の「王城」とされたかであるが、軍記物語「将門記」では単に「下総国の亭南」としか書かれていない。「亭」は「国庁」(国司が執務する施設)の意味とされるが、下総国国府は現・千葉県市川市にあったので、ここでは国庁の支庁(出先機関)を指すという説があるものの、詳細は不明(なお、「下総国府」(2013年1月12日記事)、「下総国亭(庁)跡」(2012年9月8日記事)参照)。「偽都」自体を虚構とする説も有力だが、通説では、「亭」は将門の本拠地=石井営所(現・茨城県坂東市、「島広山・石井営所跡」(2012年10月13日記事)を指し、「亭南」はその南側のことだろうとする。「将門記」には「相馬郡大井津を以って、号して京の大津と為さん」という記述もあるので、「王城」は相馬郡内だろう(現・坂東市は旧・猿島郡)という反論があるが、そもそも「大津」は京都からかなり距離があるとか、「王城」とは別の場所だから敢えて「相馬郡」と記したとかという再反論があって、何とも言えないところ。その後の軍記物語(「太平記」(14世紀頃?)など)において「将門が相馬郡に都を立てた」というような記述が一般的になるが、それでも、守谷城が将門の「王城」の地であるとする古史料は殆ど存在しない。おそらく、家名に箔を付けたい相馬氏の宣伝によるところが大きかったとみられる。将門は相馬郡の生まれとされて相馬小次郎と名乗ったという説がある(将門は三男であったが、長男が早世したため、次郎と称したとされる。因みに、四男・将頼は御厨三郎、五男・将平は大葦原四郎という。)が、上記の通り相馬氏の始祖・千葉師常が相馬(小)次郎と称したことと重ね合わされているようにも思われる。
守谷市観光協会のHPから(守谷城)
写真1:「茨城百景 守谷城址」石碑。かつては、この辺りに「守谷城」の大手門があったという。なお、向かって右が現・「守谷小学校」。
写真2:同上、横から見る。城址の土塁とされるものが残っている。
写真3:「平将門城址」石碑。「守谷小学校」グラウンドの南側に沿って歩道があるが、そのフェンスの外にあって、写真が撮りにくい場所にある(目立たないところに追いやられた感がある。)。この石碑の背後にも土塁があり、その向こうは谷に向かう坂道になっている。なお、この石碑は、地元の大地主で衆議院議員や茨城農工銀行頭取も務めた斎藤 斐氏らが明治34年に建てたもので、守谷城を将門の城と強く印象付ける契機の1つとなったといわれている。
写真4:「守谷小学校」西門(グラウンド側。正門は北側にある。)
写真5:「守谷城址公園」駐車場から北側を見たもの。左側は自然の谷を利用した堀で、右側が守谷城址。
写真6:「守谷城址公園」入口
写真7:主郭跡。「平台山」という名の通り、かなり広い台地。
写真8:土橋
写真9:土橋の下の西側に、船着き場跡がある。かつては堀にも水があったことになる。
写真10:空堀の先に二郭。古図面では本丸としているようだ。
写真11:右手の一段高いところが「妙見郭(曲輪)」で、北東端部分。相馬氏が築城した際、ここに弓箭神として妙見菩薩を祀ったとされる。
写真12:「妙見郭」から見た「守谷沼」。元は広く「古城沼」という沼沢地であったらしい。低地の奥に見える木々は、北西~南東に流れる小貝川の河岸段丘上のもの。