神が宿るところ

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清安山 不動院 願成寺

2021-11-20 23:33:40 | 寺院
清安山 不動院 願成寺(せいあんざん ふどういん がんじょうじ)。通称:板橋不動尊。
場所:茨城県つくばみらい市板橋2370。茨城県道19号線(取手つくば線)と同46号線(野田牛久線)の「東板橋」交差点から、46号線を西へ約550mで駐車場、楼門前はそこから更に西へ約150m。
寺伝によれば、大同年間(806~809年)、空海(弘法大師)が諸国行脚の折、一刀三礼の古式に則って自ら刻した不動明王及び二童子像を本尊として二間四面の草堂に安置したのを創建とする。天授年間(1375~1380年)には七堂伽藍が整備されたが、兵火で焼失。このため、文禄年間(1592~1595年)に霊雲阿闍梨により現在地に中興開山したとされる。本尊の不動明王立像(旧国宝、現・国指定重要文化財。檜(ヒノキ)材で造られ、平安時代後期のものとされる。)は求子安産・子供の成長祈願に霊験あらたかとされ、初詣・七五三参りのほか、毎月28日の縁日には境内に露店が立ち並び、多くの参詣客で賑わうという。なお、楼門の仁王像の裏に白犬の像が置かれているが、これは次のような伝承による。即ち、江戸時代、当地では難産の女性が多かった。あるとき、村長の夢に「板橋不動尊」の使いという雌雄の白犬が現れ、不動尊に参って護摩祈願すれば難産から救うと告げられ、その通りにしたところ難産に苦しむ女性はいなくなった、という。「北関東三十六不動尊霊場」36番札所(結願寺)。また、「成田山 新勝寺」(成田不動尊、千葉県成田市)、「高幡山 金剛寺」(高幡不動尊、東京都日野市)とともに「関東三大不動」の1つと称するが、「三大〇〇」の例によって3つのうち2つはほぼ異論がない(この場合は「成田不動尊」と「高幡不動尊」)が、残る1つには諸説あるという状況である。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は不動明王。
蛇足:現在のJR常磐線は千葉県柏市から我孫子市を経て、茨城県取手市、牛久市、土浦市を通っているが、計画時には別ルートも検討されていた(明治27年頃)。それは、現・柏駅から真っ直ぐ北東に進み、柏市布施から取手市戸頭、つくばみらい市板橋、つくば市谷田部を経て、土浦市に向かうというものだった。このルートのメリットは、距離が短縮できること、工事も多少は楽であること、「板橋不動尊」の近くを通るため参拝客の需要が見込めることがあった。最終的には、取手宿として栄えた取手市東部を通ることのほうが営業収入が多いとの判断もあって、現在のルートになったということである。かつて「七里ヶ渡し」と呼ばれた利根川渡河ルートが昔から重要であったこと(現在も「新大利根橋」がある。)、当寺院の参拝客が多かったことを示すエピソードだろう。


「不動院」のHP


写真1:「不動院」境内入口(西側)、寺号標(「国宝本尊 清安山 不動院」)。


写真2:同上、楼門。元禄13年(1700年)の建立で、茨城県指定文化財。仁王像はつくばみらい市指定文化財。


写真3:同上、白犬像(吽形)。


写真4:同上、三重塔。安永4年(1775年)の建立で、茨城県指定文化財。


写真5:同上、大本堂。扁額は「剣索閣」(剣と索は不動尊の持物)。元文2年(1737年)建立で、茨城県指定文化財。参詣したときには生憎、修繕工事か何かで足場が組まれていた。


写真6:同上、大師堂。


写真7:同上、「茨城百景」石碑。


写真8:隣接する「(板橋)八坂神社」の鳥居。かつては寺院と一体であったと思われる。


写真9:鳥居の後ろにある立派な石塔。天之思兼命・手置帆負命・彦狭知命とあるので、建築関係者が建てたものだろうか。


写真10:同上、社殿。創建は正治3年(1201年)とされる。祭神:素戔嗚尊。
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