中妻貝塚(なかづまかいづか)。
場所:茨城県取手市小文間4264(「福永寺」の住所)。茨城県道11号線(取手東線)「東6丁目」交差点から東へ約2.7km、押ボタン式信号機のある交差点(「福永寺」の案内看板がある。「取手幼稚園」の向かい側)を左折(北東へ)、約250mで「福永寺」境内入口。ここの駐車場を利用させていただく(貝塚は「福永寺」境内にある。まずは本堂にお参りしましょう。)。
「中妻貝塚」は、現・取手市の東端の「小文間台地」上にある直径150m、2万5千平方mに及ぶ、厚さ1~2mの貝層を有する利根川流域最大の貝塚である。広大な環状になっていて、その中心付近に「福永寺」堂宇が建立され、墓地の一角に貝塚跡として保存されている。「小文間台地」は現・利根川の左岸(北岸)にあり、北~北東側は西浦川、北浦川、小貝川が合流する広い低地になっている。貝塚は縄文時代後期~晩期(約3千年前)に形成されたものとみられ、汽水域(淡水と海水が入り混じった水域)産の大量のヤマトシジミを主とした貝類のほか、クロダイやスズキなどの海水魚の骨も見つかっているため、漁撈も行われていたようである。縄文海進期(約5千年前)には現在よりも海面が約10m高かったといわれており、その後次第に海退したが、古代にも「香取海」と呼ばれる内海が残り、現・利根川は、(現・茨城県側でいうと)坂東市~守谷市~取手市の南側は「藺沼(いぬま)」という細長くて広大な湖沼となっていて、利根町辺りで「香取海」に繋がっていたとみられている。よって、当貝塚が形成された当時、当地は小貝川と藺沼に挟まれた岬のようになっていて、海退により河口付近に砂浜が形成され、沖積低地には低湿地もあったようだ。ガン・カモなどの鳥類、シカ・イノシシなどの動物の骨も出土しているから、狩猟も行っていたようだし、製塩用の土器も見つかっているので、それなりの規模の集落が形成されていたのだろう。なお、当貝塚は、明治時代から知られていたが、平成4年に「福永寺」南側の市道拡張工事が行われたとき、直径約2m・深さ約1mの穴(土坑)から101体の人骨が出土するという驚くべき発見があった。この規模の穴に101体もの死体を納めるのは無理なので、骨になってから再埋葬したものとみられている(単に穴に投げ込んだのではなく、整然と並べられていたという。)。「古事記」・「日本書紀」に「殯(もがり)」という葬式儀礼についての記事があり、死後、埋葬まで遺体を仮安置しておくことが行われたが、これは遺体の腐敗・白骨化などを確認することによって最終的な「死」を確定することを意味したとされる。現在も沖縄の一部に残るという風葬・洗骨は、殯の名残りと考えられているが、こうした風習が3千年前からあったということになる。また、発見された人骨の歯やDNA等の分析により、一家系に属する母系集団の可能性が高く、遺伝子的にはアジア大陸にルーツがあるらしい、ということが判明したという。こうした貴重な発見があったことから、平成8年及び11年に取手市指定文化財となっている。
海中山 明星院 福永寺(かいちゅうさん みょうじょういん ふくえいじ)。
寺伝によれば、天長元年(824年)、夜明け頃に海中の波間から金色に輝く毘沙門天像が発見され、それを拾い上げて堂に安置したことが創建とされる(山号、院号はこれに因む。)。「取手市史 社寺編」では、現・茨城県土浦市「聖天山 無量寿院 法泉寺」の末寺で、祐成を開祖として大永7年(1527年)に創建されたとしている。文久2年(1862年)と明治29年に火災に遭って焼失、その後長らく仮屋の状態にあったが、昭和61年に再建された。現在は真言宗豊山派の寺院で、本尊は不動明王。 境内に毘沙門堂があり、桐の一木造りの毘沙門天像が祀られている。その毘沙門天像の胎内には、上記の創建の由来となった毘沙門天像が秘仏として納められているとのこと。また、境内の弘法大師堂は「新四国相馬霊場八十八ヶ所」第63番札所となっている。
取手市のHPから(中妻貝塚)
写真1:「中妻貝塚」。「福永寺」毘沙門堂の右脇を通って墓地の北東側へ行ったところにある。
写真2:「福永寺」山門。
写真3:同上、本堂。
写真4:同上、弘法大師堂(左)と聖徳太子堂(右)。本堂の左手にある。
写真5:同上、毘沙門堂。
写真6:同上、定傳和尚の生き入定塚。毘沙門堂の前にある。貞享4年(1687年)、当時の住職であった定傳が度重なる災害や飢饉による村人の人心荒廃を鎮めるため、生きながら入定した(いわゆる即身仏)という塚。昭和48年に改葬。
写真7:「小文間稲荷大明神」。「福永寺」の南東側に隣接。鳥居の手前に「新四国相馬霊場八十八ヶ所」第63番札所塔があり、元は、この小道の先に弘法大師堂があったようだ。
写真8:左手が「福永寺」境内で、「小文間稲荷大明神」社祠の背後にある「中妻集会所」のところに「中妻貝塚」の説明板がある。
場所:茨城県取手市小文間4264(「福永寺」の住所)。茨城県道11号線(取手東線)「東6丁目」交差点から東へ約2.7km、押ボタン式信号機のある交差点(「福永寺」の案内看板がある。「取手幼稚園」の向かい側)を左折(北東へ)、約250mで「福永寺」境内入口。ここの駐車場を利用させていただく(貝塚は「福永寺」境内にある。まずは本堂にお参りしましょう。)。
「中妻貝塚」は、現・取手市の東端の「小文間台地」上にある直径150m、2万5千平方mに及ぶ、厚さ1~2mの貝層を有する利根川流域最大の貝塚である。広大な環状になっていて、その中心付近に「福永寺」堂宇が建立され、墓地の一角に貝塚跡として保存されている。「小文間台地」は現・利根川の左岸(北岸)にあり、北~北東側は西浦川、北浦川、小貝川が合流する広い低地になっている。貝塚は縄文時代後期~晩期(約3千年前)に形成されたものとみられ、汽水域(淡水と海水が入り混じった水域)産の大量のヤマトシジミを主とした貝類のほか、クロダイやスズキなどの海水魚の骨も見つかっているため、漁撈も行われていたようである。縄文海進期(約5千年前)には現在よりも海面が約10m高かったといわれており、その後次第に海退したが、古代にも「香取海」と呼ばれる内海が残り、現・利根川は、(現・茨城県側でいうと)坂東市~守谷市~取手市の南側は「藺沼(いぬま)」という細長くて広大な湖沼となっていて、利根町辺りで「香取海」に繋がっていたとみられている。よって、当貝塚が形成された当時、当地は小貝川と藺沼に挟まれた岬のようになっていて、海退により河口付近に砂浜が形成され、沖積低地には低湿地もあったようだ。ガン・カモなどの鳥類、シカ・イノシシなどの動物の骨も出土しているから、狩猟も行っていたようだし、製塩用の土器も見つかっているので、それなりの規模の集落が形成されていたのだろう。なお、当貝塚は、明治時代から知られていたが、平成4年に「福永寺」南側の市道拡張工事が行われたとき、直径約2m・深さ約1mの穴(土坑)から101体の人骨が出土するという驚くべき発見があった。この規模の穴に101体もの死体を納めるのは無理なので、骨になってから再埋葬したものとみられている(単に穴に投げ込んだのではなく、整然と並べられていたという。)。「古事記」・「日本書紀」に「殯(もがり)」という葬式儀礼についての記事があり、死後、埋葬まで遺体を仮安置しておくことが行われたが、これは遺体の腐敗・白骨化などを確認することによって最終的な「死」を確定することを意味したとされる。現在も沖縄の一部に残るという風葬・洗骨は、殯の名残りと考えられているが、こうした風習が3千年前からあったということになる。また、発見された人骨の歯やDNA等の分析により、一家系に属する母系集団の可能性が高く、遺伝子的にはアジア大陸にルーツがあるらしい、ということが判明したという。こうした貴重な発見があったことから、平成8年及び11年に取手市指定文化財となっている。
海中山 明星院 福永寺(かいちゅうさん みょうじょういん ふくえいじ)。
寺伝によれば、天長元年(824年)、夜明け頃に海中の波間から金色に輝く毘沙門天像が発見され、それを拾い上げて堂に安置したことが創建とされる(山号、院号はこれに因む。)。「取手市史 社寺編」では、現・茨城県土浦市「聖天山 無量寿院 法泉寺」の末寺で、祐成を開祖として大永7年(1527年)に創建されたとしている。文久2年(1862年)と明治29年に火災に遭って焼失、その後長らく仮屋の状態にあったが、昭和61年に再建された。現在は真言宗豊山派の寺院で、本尊は不動明王。 境内に毘沙門堂があり、桐の一木造りの毘沙門天像が祀られている。その毘沙門天像の胎内には、上記の創建の由来となった毘沙門天像が秘仏として納められているとのこと。また、境内の弘法大師堂は「新四国相馬霊場八十八ヶ所」第63番札所となっている。
取手市のHPから(中妻貝塚)
写真1:「中妻貝塚」。「福永寺」毘沙門堂の右脇を通って墓地の北東側へ行ったところにある。
写真2:「福永寺」山門。
写真3:同上、本堂。
写真4:同上、弘法大師堂(左)と聖徳太子堂(右)。本堂の左手にある。
写真5:同上、毘沙門堂。
写真6:同上、定傳和尚の生き入定塚。毘沙門堂の前にある。貞享4年(1687年)、当時の住職であった定傳が度重なる災害や飢饉による村人の人心荒廃を鎮めるため、生きながら入定した(いわゆる即身仏)という塚。昭和48年に改葬。
写真7:「小文間稲荷大明神」。「福永寺」の南東側に隣接。鳥居の手前に「新四国相馬霊場八十八ヶ所」第63番札所塔があり、元は、この小道の先に弘法大師堂があったようだ。
写真8:左手が「福永寺」境内で、「小文間稲荷大明神」社祠の背後にある「中妻集会所」のところに「中妻貝塚」の説明板がある。