空耳だったらよかったのに。列の中から男は時折叫び声をあげていた。待ち切れないというのか。たったそれだけのことで不満をぶちまけねばならないのだろうか。列を成す人々が一層強く固まっているのが見なくてもわかる。受付は三つほどあったが、男がたどり着いたのは僕のいるカウンターだった。怒りは収まっていない。待たされたことも、名前を書かされることも、同じように不満を顔に出し、声に出し、時に意味不明のことを口にした。酔っているに違いない声の大きさは、周りにいる人の顔を強ばらせていた。僕はなるべく男を刺激しないように冷静な対応を心がけた。「うるさい! 俺に命令するな!」命令なんて……。そんな風に伝わってしまうかな。男はカウンターに備え付けのボールペンを投げつけた。それは直接私に向けたものではなかっただろうけれど。きっとかまってほしかったの。私は独り白い目に晒された男のことを哀れにも思いました。かわいそうな子。かわいそうな赤ちゃん。聞いてほしかったの。わかってほしかったの。ただ泣くだけならよかったのに。あの頃ならね。だけど、あなたは言葉を知ってしまいました。立派に力を持ってしまいました。人を傷つけたり、怖がらせたりもでる。なのにあなたは何もわかっていない。わしは驚いた。
ふと顔を上げると女が表で手を振っておったのじゃ。雨の中に立ちながら、わしが気づくまで。雨か。わしはその日雨が降るとは聞いておらんかった。だが、確かに雨じゃった。わしがようやく気づいて手をあげると彼女は一礼して帰って行った。わしが彼女を見かけたのはそれが最後じゃ。初日から熱心に働く真面目な人だった。彼女が去ったのはこの街の雰囲気が思っていたのと違ったことが関係していたそうじゃ。わしの記憶は今でもあの雨の中のままじゃ。それにしても。いつからふっておったのかのう。わしが気づいたのは、どれほど遅かったろうか。もう手遅れだ。ボールペンが投げられた時、それは俺にとっての合図だった。
「もう帰ってくれ!」
俺の仲間がそう叫んでいた。一瞬のターン。がまんの時は終わった。立ち去るがよい。愚か者よ。言えば通ると思うんじゃねえ。酔ったら許されると思うんじゃねえ。自分の言いたいことばっかり言うんじゃねえ。今更言い訳なんかするんじゃねえ。帰れ帰れ! 俺の仲間がそう言ってんだ。本当は仲間でも何でもねえ。こういう時だけの仲間だ。とにかく、今日はもう帰れよ。ここに君の居場所はない。お気の毒ですが。僕はもうさよならしか言えないよ。もう赤ん坊とは違うんだ。
もしもあなたが赤ん坊だったら。
みんなはうれしく思うだろう
優しく思うだろう 懐かしく思うだろう
愛おしく思うだろう
「ぼくがここにいるよ」って泣いていたら