kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

教えながら学ぶ

2015-11-13 | 陸上競技
人に何かを教える、伝えることが今の仕事。教えるというと何だか上から目線になってしまう感じがある。問題の解き方を教える。基本的なルールを教える。言葉で書くと簡単な事だが「教える」という行為のあり方について考えさせられる。

この話の前提は「問題を解こうとしている者がいる」というところからスタートする。問題を問題として捉えられていない者に対しての教育活動は本当に難しいと思う。自分の中で何とかして答えを見つけ出そうとしている訳ではない者に対してどのようなアプローチをしても効果は出にくい。本人が何も欲していなくて何となくやっている事に対してヒントを与えても、答えを与えてもそこに意味は発生しない。

ある者は問題を解こうとする。ある者は黒板に答えが書かれるのを待っている。この時点ですでに大きな差がある。問題を解こうとしている者に対してヒントを与えればそれがきっかけになって閃いたりする。時間がかかっても教えられた事を丁寧にやり続けて少しずつ答えに近づこうとする者も出てくる。答えを導き出そうとしている者にとっては必要な時に必要な事を示してくれる存在は必要なのだと思う。

が、黒板に答えが書かれるのを待っている者。これは最初から考えていく事を放棄している。時間が経てば答えが示される。何故そのような答えになるのか。ここにたどり着くまでのプロセスに楽しさを感じない。特に何もしなくても誰かが答えを示してくれるのだから待っていれば良い。自分で何かをしなくても隣の子の答えを見れば「正解」は分かる。でも、その「正解」の意味は分からない。「正解」を知るだけでは人は成長しない。

こんな事を書いても意味が全く分からないと思います。これはすべての部分につながってくると思っています。何も考えずに生きている。これは本当にもったいないなと思います。誰かがすべてをお膳立てしてくれてその指示通りに動けばよい。そう考えて生活する。世の中のほとんどのことは「問題解決」を伴う。考えずに誰かから与えられた「答え」だけを知っているだけではこれから先、困るときがくる。

「答え」を知っていてもその「意味」がわからない。実はそんな人が多い気がする。哲学や道徳の授業などである話だが「人の命を奪ってはいけない」という「答え」がある。それでも殺人事件は起こる。なぜなのか?「答え」は知っていてもそこに到達するまでのプロセスの中で大切なものが欠落しているからだと思う。自分が楽をするために人の命を奪えるのか?大半の人は「ノー」という。が、実際は殺人事件はなくならない。

「答え」を導き出すまでに何考えるかが実は大事なんだと思う。競技でいえば「理想とする走り」がある。が、そこにたどり着くのは様々な方法がある。何が正しくて何が間違っているのかを考えないといけない。言われた通りにやればいい。本当にそうだろうか?自分で意味を理解し、その実現のために何をするのか。こういう部分がないと面白くないのではないか。

実際は「答え」を示してもその意味が分からない場合のほうが多い。競技に関しても、物事に取り組む姿勢に関しても。「こうやったほうがよい」ということは示せるがそれが「なぜなのか」は分からない。だから先に進まない。そこまで一つのことに真剣に取り組めていないからなのかもしれない。これまで「答え」を与えられるのが当たり前だったからなのかもしれない。そこは分からない。教室に座って黒板を書き写し、言われたことを覚えることで活動すること。これが教育の基本スタイルだったのかもしれない。

私がやりたいのはなんだろう?教科書通りに何かをできる子供たちだろうか?枠を踏み外すことはないかもしれない。が、「考える」ことを放棄してなんとなく生きるというのは面白くない。話を聞いてその意味を考える。先生が何を伝えようとしているのか考える。言葉を額面通りとらえて「否定された」と感じる子もいるだろう。真意が伝わるような話し方ができていないからなのかもしれない。

「考える」必要がある。教えるという時間を使いながら私自身も学ぶ。当然の話。易きに流れない。本質を追い求める。そういう生き方をしたい。
コメント
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