とにかく疲れています。気分的にも乗りません。
テスト期間中、色々な用事が重なり10分程度しかグランドに行けない状況がありました。たった「10分」ですが「本当にやりたいことができるのか」と思わされる出来事が何度も何度も繰り返されました。これはしんどいなと。
どこのレベルに合わせるか。「強くなりたい」と思ってやっている選手に合わせるのか。それとも「和気あいあいにやるものに合わせるのか。ここはそれぞれの考え方だと思います。「きちんとやりたい」と願っていてもそのような環境がなく指導に飢えている選手もいると思います。逆に「軽い気持ち」で入ってきたが「本気でやっている」という部分に戸惑う者も出ると思います。
「やりたくない」と思う者には選択権があると思います。「きちんとやる」ようにするのか「入らずにやらない」という選択です。競技力があるなしは関係なく「きちんとやる」という水準でできるのか。ここは大きい。
これまで多くの時間をかけて指導してきました。が、常識的ではなかったりする部分がある。少し前のことですが全員が片づけをしているのしない。そこを指摘する。今度は全員が室内の掃除をする。が、今度も全くしない。そこを指摘するとほうきを動かすだけで掃除はしない。これって「指導」なのか。ひどく疲れました。
さらにここ最近。練習中に関係ない話をし続ける。そのことに関して指摘する。練習に集中するように。が、次の日も同じように話をする。他の者が指摘をする。瞬間的には変わるがまた同じようなことを繰り返す。日誌には「今日も私語をしてしまった。明日からはしないようにする。」と書いているが、翌日の日誌にも「今日も私語をしてしまった。明日はしない。」と書く。ここに意味があるのか。
結構真面目に話をしたり指導をすることがある。が、それが日誌には一切書かれない。指導する意味があるのかどうかも疑わしくなってくる。ある者が「注意をしたが、その話が終わったらまた私語をしていた」と日誌に書いていたりする。「注意」をした者の気持ちがわかるのか。きっと分からない。
決められあ距離を走る。それができない。「きちんと走る」というのができずにテンポ走以下のスピードでしか走らない。さらに練習中に他の部の者にちょっかいをかけ始める。練習に集中するという話の前に「何をしにきているのか」を問われる部分なのかもしれない。
「きちんと提出物を出すように」としつこく指導する。練習だけきちんとやればいいわけではない。学校生活がきちんとできなければそこに意味があるとは思えない。それでも「提出物」が出せていないと指導を受ける。なぜなのか。
私が年齢を重ねたからなのか。「感覚的な差」がある。正直、陸上競技の指導自体やる必要があるのかを感じる。そこまでして私が「嫌な思い」をしながら「競技指導」以前の問題を言い続ける必要があるのか。「テスト中」は日誌の提出はしない。が、毎日書くのが約束となっている。テストが明けて提出すると全く書いていない。途中の指導も指摘も全く書いていない。
これって「私が悪い」のかどうか、だと思う。すべてを許容する必要があるのかもしれない。しかし、それって何か意味がるのか?
全体の前で「きちんとやっている者には悪いけど私が来て指導する意味があるか?」と聞いた。かなりの時間を使って競技指導をする。しかし、今の自分のとっては「陸上競技がすべて」ではない。他に「楽しい」と感じることもある。そうであれば「嫌な思い」をしてまで「競技指導」をする必要性があるとは思えない。
その話をした後にある選手が「自分は指導が受けたくて時間をかけて通っている」という話を全体にしたらしい。結局、「伝わる者」には「真意」が伝わる。「伝わらない者」にはどれだけ話しても伝わらない。それが現実なのかなと思っている。
気力がわかない。それが現実。どうするのか。わかりません。