思うことを。これはあくまで「私見」でしかありません。偏った考え方なのかもしれない。それはそれでいいかなと思っています。
支部新人。色々な準備が必要になります。自分達で準備をして大会を行う。毎回ですがテント設営などを手伝ってくれる学校もあります。「競技会」は誰かがやってくれるというものではありません。高校生の大会であれば「自分達でやる」という感覚は必要不可欠だと思っています。
この中ですごく気になる部分。「補助員としてよく頑張った」「大会運営中の手伝いが足りなかった」という指導があります。確かにそうだと思います。「準備を頑張った」というのがあるから大会運営ができるというのは確かです。しかし、一番大切なのは何か。ここが見落とされると「競技会」ではなくなるかなと。
もちろん、「手伝うこと」や「補助員」をすることは重要です。大会運営側からすれば「手伝い」や「補助員」がいなければできません。本当にありがたいことです。しかし、最も大事なのは何か。「選手」として「競技会に出る」という一番ベースになる部分ではないか。人数が多くて試合に出れないというチームもあると思います。しかし、今回のうちの状況であれば「5人のみ」ですから「出場枠」が余っています。様々な状況はあると思いますが、「競技者」としてグランドに立つのか「補助員」としてグランドに立つのかでは意味が違ってきます。「補助員としてよく頑張った」というのは「最終的な部分」であって最初からこの部分を認めていくのは違うのかなと思っています。
しつこいようですがあくまで「私見」です。
何故、「陸上競技」をやっているのか。実際問題、県の陸協では「審判業命」という方もいると思います。競技者の立場に立ってとかではなく自分の生きがいとして「審判」をしている。そういう人を全否定するわけではありませんが、あくまで主体は「競技者」であってその「競技者」がどのようにパフォーマンスを発揮するかが重要。配慮はその一点だと思っています。最重要事項。
が、いつの間にか「補助員」をすることで競技会に参加しているという形になっている者がいないか。暑い中で「補助員」をやっていたら「大変だね」とか「よく頑張っているね」と言われることもあると思います。が、それは「競技者」としての評価ではない。高校生が「学生審判」として競技会に参加するというのはありだと思っています。自分達が普段支えられているので他の場面で「支える」という活動をする。ここから学ぶことはあると思います。
しかし、「高校の競技会」で「補助員」として活躍するのは本筋ではない。やはりグランドに立って競技をしてもらいたい。グランドに立てないことを「悔しい」と思うのか、「仕方ない」と思うのか。部員数が多い球技などでは明らかに「熱量」が異なってきます。レギュラーとそうでない選手の「温度差」が大きくなってしまって問題が生じる。良くある話です。こういう「対校戦」の時に学校の名前を背負って「代表」として出場するかどうかというのは大きいのではないか。もう時代錯誤なのかもしれませんが。
学校によってはそういうスタンスでもよいと思っています。が、曲がりなりにも「体育コース」があってそれなりに「競技をやりたい」と思って活動しているのであれば「試合に出れない」ことに納得してしまったら「勝負する」とは全くの別次元の話になると思っています。別に「速い」とか「遅い」とかではない。「競技」としてどのように考えるかだけ。スタンスとして「楽しくやろう」というのでれば、県総体に出場することができなくても「納得」はできると思います。しかし、「強くなりたい」と思うのであればやはり「競技者」としての感覚を持ち続けてもらいたいなと。
「評価」をどの部分で受けるのか。「挨拶が良いね」と褒められる。「準備ができるね」と認められる。もちろん大切な部分ですし、「人間的な成長」としては重要だと思います。しかし、それは「競技者」として競技力の向上に努めながらでもできるはずです。「人間的成長」が先で「競技力向上」がついてくるのかどうかですが。厳密には複雑に絡み合っているので「卵が先か鶏が先か」と同じ話になるのかもしれません。しかし、「人間的成長」ができたとしても「競技力向上」がほぼなければ何をしているのか分からなくなります。「競技力向上」のための一要因として「人間的な成長」がある。強くなるためには「気遣い」や「計画性」などは重要です。
私自身も「補助員」がいてくれるから競技会が成り立つというのは分かっています。しかし、そこを最優先するのは違う。「競技」があって「支える」部分の必要性が分かってくる。「支える」ことがメインになるのであれば別に「競技者」でなくてもよい。どこが居心地がいいのか。それは人それぞれだと思います。しかし、「競技者」としてやるのであれば「評価」を受けるべきは「競技結果」であって、それに付随する部分に関しては「付属品」だと思います。
「強くなる」ことを一生懸命に考えたら「付属品」の大切さにも気づけると思います。「付属品」がメインになって「強くなる」ことがおまけのようになるとこれはこれで違う方向に行くのかなと思っています。
上手くまとまりませんが。感じたことを記録しておきます。「競技者」であってほしい。強く願います。
支部新人。色々な準備が必要になります。自分達で準備をして大会を行う。毎回ですがテント設営などを手伝ってくれる学校もあります。「競技会」は誰かがやってくれるというものではありません。高校生の大会であれば「自分達でやる」という感覚は必要不可欠だと思っています。
この中ですごく気になる部分。「補助員としてよく頑張った」「大会運営中の手伝いが足りなかった」という指導があります。確かにそうだと思います。「準備を頑張った」というのがあるから大会運営ができるというのは確かです。しかし、一番大切なのは何か。ここが見落とされると「競技会」ではなくなるかなと。
もちろん、「手伝うこと」や「補助員」をすることは重要です。大会運営側からすれば「手伝い」や「補助員」がいなければできません。本当にありがたいことです。しかし、最も大事なのは何か。「選手」として「競技会に出る」という一番ベースになる部分ではないか。人数が多くて試合に出れないというチームもあると思います。しかし、今回のうちの状況であれば「5人のみ」ですから「出場枠」が余っています。様々な状況はあると思いますが、「競技者」としてグランドに立つのか「補助員」としてグランドに立つのかでは意味が違ってきます。「補助員としてよく頑張った」というのは「最終的な部分」であって最初からこの部分を認めていくのは違うのかなと思っています。
しつこいようですがあくまで「私見」です。
何故、「陸上競技」をやっているのか。実際問題、県の陸協では「審判業命」という方もいると思います。競技者の立場に立ってとかではなく自分の生きがいとして「審判」をしている。そういう人を全否定するわけではありませんが、あくまで主体は「競技者」であってその「競技者」がどのようにパフォーマンスを発揮するかが重要。配慮はその一点だと思っています。最重要事項。
が、いつの間にか「補助員」をすることで競技会に参加しているという形になっている者がいないか。暑い中で「補助員」をやっていたら「大変だね」とか「よく頑張っているね」と言われることもあると思います。が、それは「競技者」としての評価ではない。高校生が「学生審判」として競技会に参加するというのはありだと思っています。自分達が普段支えられているので他の場面で「支える」という活動をする。ここから学ぶことはあると思います。
しかし、「高校の競技会」で「補助員」として活躍するのは本筋ではない。やはりグランドに立って競技をしてもらいたい。グランドに立てないことを「悔しい」と思うのか、「仕方ない」と思うのか。部員数が多い球技などでは明らかに「熱量」が異なってきます。レギュラーとそうでない選手の「温度差」が大きくなってしまって問題が生じる。良くある話です。こういう「対校戦」の時に学校の名前を背負って「代表」として出場するかどうかというのは大きいのではないか。もう時代錯誤なのかもしれませんが。
学校によってはそういうスタンスでもよいと思っています。が、曲がりなりにも「体育コース」があってそれなりに「競技をやりたい」と思って活動しているのであれば「試合に出れない」ことに納得してしまったら「勝負する」とは全くの別次元の話になると思っています。別に「速い」とか「遅い」とかではない。「競技」としてどのように考えるかだけ。スタンスとして「楽しくやろう」というのでれば、県総体に出場することができなくても「納得」はできると思います。しかし、「強くなりたい」と思うのであればやはり「競技者」としての感覚を持ち続けてもらいたいなと。
「評価」をどの部分で受けるのか。「挨拶が良いね」と褒められる。「準備ができるね」と認められる。もちろん大切な部分ですし、「人間的な成長」としては重要だと思います。しかし、それは「競技者」として競技力の向上に努めながらでもできるはずです。「人間的成長」が先で「競技力向上」がついてくるのかどうかですが。厳密には複雑に絡み合っているので「卵が先か鶏が先か」と同じ話になるのかもしれません。しかし、「人間的成長」ができたとしても「競技力向上」がほぼなければ何をしているのか分からなくなります。「競技力向上」のための一要因として「人間的な成長」がある。強くなるためには「気遣い」や「計画性」などは重要です。
私自身も「補助員」がいてくれるから競技会が成り立つというのは分かっています。しかし、そこを最優先するのは違う。「競技」があって「支える」部分の必要性が分かってくる。「支える」ことがメインになるのであれば別に「競技者」でなくてもよい。どこが居心地がいいのか。それは人それぞれだと思います。しかし、「競技者」としてやるのであれば「評価」を受けるべきは「競技結果」であって、それに付随する部分に関しては「付属品」だと思います。
「強くなる」ことを一生懸命に考えたら「付属品」の大切さにも気づけると思います。「付属品」がメインになって「強くなる」ことがおまけのようになるとこれはこれで違う方向に行くのかなと思っています。
上手くまとまりませんが。感じたことを記録しておきます。「競技者」であってほしい。強く願います。